World Map Europe

東方正教会 ― 知られざるキリスト教文化圏
Ⅵ 正教会と歴史を訪ねる旅 ― 1.セルビア③

前回で書きましたように、中世セルビア王国は1389年のコソボの戦いでオスマントルコに敗れ、ついに1459年に滅亡して、セルビアを含むバルカン半島のほぼ全域がトルコ領になりました。

400年近い時を経た1804年、ベオグラードから数十キロ南にあるトポラという町の豚商人だったジョルジェ・ペトロヴィチが、近くのオラシャツという村で独立運動を挙兵し、戦いがセルビア全土に広がりました。これを第一次セルビア蜂起といい、挙兵した2月15日はセルビアの記念日として国民の祝日になっています。なお、ジョルジェ・ペトロヴィチは人々からカラジョルジェというニックネームで呼ばれたため、彼の子孫はカラジョルジェヴィチ家と改姓しました。

1804年の蜂起は鎮圧され、カラジョルジェも国外に亡命しましたが、彼のライバルの豚商人だったミロシュ・オブレノヴィチが1815年に第二次セルビア蜂起を起して成功。しかしミロシュは自分より人望があるカラジョルジェの存在を恐れ、1817年に帰国した彼を暗殺。そして自分は自治国として条件付きながら独立を果たしたセルビア公国の君主、セルビア公ミロシュ1世となりました。このセルビア公国は、後の1882年にセルビア王国となります。

このような流れの中で、当主のカラジョルジェを殺されて、セルビア独立の手柄をミロシュ・オブレノヴィチに独り占めにされたカラジョルジェヴィチ家の恨みは凄まじいものがあり、ミロシュ1世以降の君主の座は両家の間で暗殺やクーデターなどで何度も入れ替わり、抗争は1903年に国王アレクサンダル1世が暗殺されてオブレノヴィチ家が断絶し、カラジョルジェの孫のペタル1世が即位するまで続きました。

さて今もトポラに行きますと、独立運動の最初の火ぶたを切ったカラジョルジェの地元ということもあって、カラジョルジェ自身やカラジョルジェヴィチ王家に関連する見どころがたくさんあります。中でも一番の目玉は、市内のオプレナツという場所にある聖ジョルジェ教会(写真1)です。


写真1:トポラ・聖ジョルジェ教会

この教会は、上記のペタル1世がカラジョルジェヴィチ家の墓所として建立したものです。1910年に着工され、完成まで20年を要しました。内部は一階の聖堂も、地階の墓所もゴージャスなモザイクの壁画で埋め尽くされており(写真2)、20世紀に誕生した文化財として一見の価値があります。なぜか我が国の観光ガイド本では、セルビアの中でトポラは紹介されておらず、従って我が国で知名度は極めて低い町だと思われますが、実際にセルビアに行ったらぜひ訪ねることをお勧めします。


写真2:聖ジョルジェ教会内部

話を19世紀のセルビア公国に戻しましょう。ミロシュ1世は1838年に首都をベオグラードに移転しました。以後、ベオグラードは西欧諸国の街並みを模した街づくりが行われました。
ベオグラードの中心地には、ベオグラード市庁舎(写真3)と大統領官邸が並んで建っていますが、これはもともとオブレノヴィチ家が王宮として建てたものです(市庁舎が旧館、大統領官邸が新館)。私は2016年秋に、日本セルビア協会の現地視察旅行でニコリッチ大統領(当時)にお会いした時に両方の建物の中に入りましたが、いかにもヨーロッパの王宮という感じの豪華な造りで見応えがありました。さすがに大統領官邸に一般の観光で入ることはできませんが、市庁舎の方は1階が展示室になっており、王国時代の調度品や絵などを見ることができます。


写真3:ベオグラード市庁舎

また、この二つの建物の大通りを隔てた反対側は国会議事堂で、その並びに聖マルコ教会(写真4)というベオグラードで二番目に大きな教会があります(最大の聖サワ大聖堂は次回紹介します)。


写真4:聖マルコ教会

私は2016年の訪問時に日曜日の聖体礼儀を執り行わせていただきましたが、世界遺産のグラチャニツァ修道院(先月号参照)を模した外観と、モザイクの豪華な壁画が特徴で、とても美しい教会でした。ここも日本人に知られていない隠れた名所ではないかと私は思っています。

写真:
  • 写真1:「トポラ・聖ジョルジェ教会」、2017年8月に筆者撮影
  • 写真2:「聖ジョルジェ教会内部」、同上
  • 写真3:「ベオグラード市庁舎」、同上
  • 写真4:「聖マルコ教会」、2016年10月に筆者撮影

コメントはこちらから

メールアドレスが公開されることはありません。

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)