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Relationship ― ミャンマーと日本の『時間軸』を辿る ~ミャンマーとの友好関係の構築・・・ビルマ・ミャンマー軍事政権期その5

日緬関係の低迷期、ミャンマー政府再編

前回軍事クーデターによってソウ・マウン議長を頂点とする「国家法秩序回復評議会」(通称SLORC)による国家運営が開始され、「ミャンマー連邦」への国名変更、首都「ヤンゴン」への名称変更を行っていく一方で、反権力闘争もますます盛んになる時期であり、アウン・サン・スー・チーを中心と据えるグループによる抵抗運動も大きく世界メディアで取り上げられるようになっていきました。
日本との関係はといえば、前回もお話したとおり、継続中の支援は行うものの、西側諸国が行った制裁などに追従する形になってこれまでの関係性を改めることとなり、親密だった関係から何十歩も後退する関係性となっていきました。


写真1:タン・シュエ議長

さて、1988年に発足したSLORC政府ですが、その後1997年11月になってこの最高機関を「国家平和発展評議会」(the State Peace and Development Council)通称「SPDC」に再編成し、SPDC政府へと変貌を遂げます。
これは法秩序の回復が一応の達成をみたので、これからは自国の安全を確保しつつ、経済発展を目指した国家運営に力を注ぐというバージョンアップを図る目的で行われました。

ただこの間には、1990年5月に国民議会総選挙が行われ、与党の国民統一党が野党勢力である国民民主連盟に大敗、本来であれば政権交代という結果になるのですが、SLORC側はこれを拒否、更には野党勢力の代表人物などを逮捕拘束することになります。このときにアウン・サン・スー・チーも「自宅軟禁」という措置が取られます。

また、1992年になってSLORCの議長であったソウ・マウン大将が健康上の理由で辞職(後1997年に死去)、新たにタン・シュエ議長に運営を交代し、SPDCに再編されたのちもタン・シュエがトップの座を担っていきます。

何故政権移譲を拒否したのか?

ここでちょっと前に戻って1990年国民議会総選挙について見ていこうと思います。この選挙は元々ソウ・マウン議長がSLORC発足時に「複数政党制による選挙の実施」と宣言していた事が発端となりました。
投票には軍は一切介入せず、個々の軍人にも自由投票が許されていた一方で、アウン・サン・スー・チーなどの野党側は、その投票行動に金銭的及び物理的強制手段が用いられた不正行為がかなりあったと言われています。
結果として485議席中、アウン・サン・スー・チーらの国民民主連盟(NLD)が392議席を獲得することになりました。しかし、SLORCは民政移管を拒否することになり、世界の多くのメディアや有識者らは「軍事政権は権力にしがみついている」と猛烈に批判をし、これが今日に続くミャンマー批難の出発点ともなっています。

もちろん、単純に選挙結果だけ見ればそういう批判はあって然るべしと思いますが、ただ、政権側はこの件に関してきちんとした説明を行っていないという事実もあることをどれだけの人が知っているでしょうか。
簡単に民政移管が出来なかった「やむをえない事情」があったことを率直に説明しておれば、今まで続くミャンマー批判も出ず、国際社会はある程度の理解を示していたかもしれないのです。


写真2:1990年総選挙時のNLD広報車

では「やむを得ない事情」とはどのようなものだったのか? まずは、ミャンマーにおいて「憲法」が制定されていなかったことが挙げられます。

よくご存じの方は「以前から憲法はあったではないか」と仰られるかと思います。確かに1974年制定の憲法の存在はありましたが、あれは一党独裁制の憲法であってこの時すでに廃止されていました。
つまり、新たな憲法はまだ存在すらせず、国家の基本枠組みはまだ白紙であり、大統領制なのか議院内閣制なのか、国会も二院制か一院制か全く決まっていなかったのです。

これでは選挙をやっても意味がありません。ただそれが分かっていて何故憲法(暫定憲法)を制定しなかったのかというと、SLORCの秩序作りとして、自らの手で憲法を草案して決定するというところに強い拘りがあったからなのです。

この拘りは国が抱えていた緊急課題の一つ「少数民族反政府武装勢力」との紛争も影響しており、少数民族との戦いに敗れることがあれば、国家は分裂し「連邦国家」としての形を維持できない、国の存立に大きな危険が及ぶと判断したからと思います。

もう一つはアウン・サン・スー・チーの「過激化」です。彼女は機会あるごとに国軍を散々に叩き、国軍批難をトーンアップさせていきました。当時の人々は確かにネ・ウィン時代の軍の悪さを知っていますから反軍感情は誰しも持っていたと思います。しかし、軍のこれまでの国内外での貢献を実は認めている部分もあり、もちろん怖さも知っていますから表立って批難することは無かったのです。しかし彼女の場合、国民的英雄の娘であり、「世界が後押しする私に手は出せまい」という高をくくった一面があり、より「口撃」を先鋭化させたことが軍の中枢部に大きな危機感を抱かせたと思われます。

こうして総選挙の結果に関わらず、国軍中心の政権は維持され、事態の表層しか見ていない世界各国からは非難され、様々な制裁によって国家運営もかなり厳しいところまで追い込まれていくことになります。
そしてこのような動きに日本は為す術もなく、各国に同調した外交政策に進んでいくこととなるのでした。

(続く)

資料:

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