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Relationship ― ミャンマーと日本の『時間軸』を辿る ~ミャンマーとの友好関係の構築・・・昭和時代その7

戦局の苛烈化

このコラムでは、余り当時の戦局について言及してきませんでした。
私としては戦闘行為よりも当事者の「人間臭さ」であったり、教科書に載らないエピソードに注目してほしいという希望があったからです。ただ、戦争が終結に向かって歴史の軸が進むにつれて、ベースとなる事実関係をあらためて触れておくべきだろうと考え、少しばかり当時の戦局についてお話しておこうと思います。

帝国海軍による真珠湾攻撃に始まったともいえるこの戦争は、アジア地域において電撃侵攻作戦が開始され、瞬く間にマレー半島やビルマなどの占領に成功、奇跡の6ヵ月でアジアの重要拠点を抑えることになった日本ですが、その後の苦境は皆さんもご存知の通りで、残存英国軍や中国軍との戦いなどで多くの戦死者が生まれ、それでも日本の国益の確保、アジア諸国の独立という目標に向かって尊い命を犠牲にして進んでいきます。戦局を冷静に分析できていた一部の軍の関係者にとっては、早期講和或いは終戦工作を迅速に進める道筋を模索し始め、拡大した戦局の収拾に頭を悩ませる日々が続いていくことになります。


写真1:加藤隼戦闘隊、加藤建夫中佐

ビルマにおける戦局も例外ではありませんでした。
そもそも日本がビルマに侵攻する目的とは、南方において国民生活や戦争継続に必要な資源の確保と、日中戦争における中国国民党軍支援ルート、通称「援蒋ルート」の破壊でした。

空中においては、帝国陸軍飛行戦隊の加藤建夫中佐率いる通称「加藤隼戦闘隊」がイギリス空軍やアメリカ陸軍や「フライングタイガース」と呼ばれた中国国民党を支援するアメリカ合衆国義勇軍と交戦し奮闘するも、加藤中佐は1942年5月ビルマ上空での戦闘において戦死します。

陸上においては、北部ビルマ占領による援蔣ルート破壊とイギリス軍のビルマ領域からの排除を目的とした「北伐」が行われ、戦闘は熾烈を極めていきます。
戦争前半の快進撃から一転、尊い命が日々失われ、多くの犠牲を積み重ねる苦闘の後半となっていきます。

突然の命令書と別れ

戦局が苛烈化するにつれて、南機関とアウン・サンらBIA軍も過酷な戦場に赴く機会が多くなっていきます。もちろん、北伐にもBIAは参加し、まるで国家独立を意図的に忘れさせようとするかの如く緊迫した最前線に送り込まれていきます。

その一方で来るべきビルマの独立に先駆け、鈴木機関長は国家の基盤を整備すべく首都ラングーンの治安回復の手を次々と打っていました。
主なものを挙げてみますと、ラングーン市民のための病院の開設、住宅の再建・確保、銀行の創設や日本語学校の開設などでありました。このビルマ全地域における治安回復プログラムの陰の立役者は「ビルマ仏教会」と鈴木機関長の意向を汲み取って尽力した日本人僧侶の永井行慈上人と言われています。


写真2:BDA司令官時代のアウン・サン将軍

またBIAの再編にも尽力し、護郷軍を整備してビルマ全土から集まった約3万人の兵員の中から約3千人を選抜した精鋭部隊BDA(ビルマ国防軍)への改編を行い、更に今後の海上防衛のためにビルマ海軍の創設にも鈴木機関長の手腕が発揮されました。

さて、鈴木機関長の国家独立論は以前にも書きました。第三者の手で行われるのではなく、自国民の自然発露によって行われるべきであるということでしたが、アウン・サンらも参加していた政党「タキン党」は、イギリス統治下の時代から地下活動を行って国家独立を画策してきた集団で、鈴木機関長の意向には大筋沿っていった者達でした。
しかしながら、早期独立を好まず軍政を施行しようとする帝国陸軍司令部にとっては煙たい存在であり、南機関も厄介なお荷物という位置づけとなっていきます。

そのような中、昭和17年6月末日のこと、鈴木機関長の元に帝国陸軍司令部よりある「命令」が下ります。

「南機関長の任を解き、帝国陸軍近衛師団司令部付を命ずる。」

それは事実上「更迭」処分ともいえる命令でした。
私もかつて組織にいた人間なのでよくわかりますが、組織の人事管理の鉄則ともいえる反乱分子は抑え込むという手法。これまでの鈴木大佐の言動を鑑みれば、陸軍上層部にとって邪魔な存在なのは明らかでした。

組織の命令は絶対承服しなければならない。
手弁当から始めたビルマ攻略作戦、完全ノープランの実行計画から自腹でアウン・サンらを日本へ逃亡させそして司令部を動かして「南機関」を発足させた。
その活動は、発足からわずか1年6ヵ月という期間で幕を閉じることとなります。
鈴木機関長だけではありません、機関員であった日本軍人もそれぞれ戦地に赴任することとなり、あの泉谷中尉も戦地へ赴くこととなったのです。(その後の南機関員についてはもし機会がありましたらご紹介したいと思います。)

離任にあたり鈴木大佐は北伐作戦に従軍中のアウン・サン将軍を呼び戻し、命令書の内容を伝えるとともに、義勇軍兵士の前で正式にBIA司令官の指揮権をアウン・サン将軍に授け、そして同年7月にはマンダレーの指揮所を訪れ義勇軍再編を行っていた部下たちに別れを告げます。
こうして7月14日、鈴木敬司陸軍大佐はラングーンを去ることとなりました。

軍司令部と激しく対立していた鈴木大佐でしたが、日本に戻ってから特段のペナルティを課せられることはなく、約1年後には「陸軍少将」に昇進します。
これについては私見ですが、帝国陸軍の中にも鈴木大佐以下南機関のインドシナ・東南アジアにおけるこれまでの活動をかなり高く評価する勢力が存在していたということだろうと思います。

皮肉な時の巡り

歴史というものは時の巡りによって大きく事態が左右します。
ついこの間まで上手くいかなかったことが翌日になって急に好転する。このようなことは私たちの生活の中で何度となく遭遇していることでもあります。

南機関が消滅してからすぐのこと、ビルマ独立行政府の設立準備が急ピッチで行われます。
これには「眼の上のたんこぶ」が居なくなったことを好機としてとらえた軍上層部が奔走して軍部の意向に都合のよい人物を見つけ首班に据えることとなります。その人物こそが、前回の手記を執筆していた「バー・モウ博士」です

昭和18年8月1日、バー・モウを首相とする形で皮肉にも「ビルマ独立宣言」が発表されます。
この独立政府発足に際して猛烈に批判的だったのはBDA司令官アウン・サン将軍でした。しかし、これまでの経緯を鑑み機を逃すことは得策ではないと考え、彼は不満を持ちつつもバー・モウ政権に参加し、「国防大臣」に就任します。
また、これと同時にBDAは「ビルマ国軍」と再度名称を変更し、BIA時代から苦楽を共にしてきた仲間あの「三十人の志士」達の多くが、国防省やビルマ国軍の重要ポストに就任することになります。


写真3:大東亜会議の出席者たち

日本軍の傀儡政権とはいえ、ビルマ国内情勢は落ち着きを取り戻し、バー・モウ首相は東條英機内閣が東京で開催した「大東亜会議」に参加するなどして日本とビルマの関係は強化なものになっていく・・・・筈だったのですが。
ここでもまた「時の巡り」がやってきます。
ビルマ・インド戦線における最大にして最悪の軍事作戦「インパール作戦」の開始が目の前まで迫っていたのです。

(続く)

資料:

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