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命のビザ −杉原千畝

杉原千畝とは?

杉原千畝は1900年岐阜県加茂郡八百津町生まれ。外国語、特にロシア語が堪能であった杉原は、1938年8月28日にリトアニアのカウナスにあった日本領事館領事代理として着任する。

赴任直後の9月1日、ナチスドイツがポーランドへ侵攻、第二次世界大戦開戦。1940年7月、ナチス・ドイツの追害によりポーランドからリトアニアに逃れてきたユダヤ人が各国の領事館・大使館からビザを取得しようとしていたが、ソ連の求めに応じて各国領事館・大使館は次々と閉鎖していった。やがて人々はまだ閉じていなかった日本領事館に集まるようになるが、日本本国は要件を満たしていないユダヤ系避難民に対して発給を認めないよう指示。

しかし杉原は人道的にビザ発給が必要と自ら判断し、6000人もの人々の命を救った。やがて日本領事館も閉鎖、杉原はホテルへ移動し1940年8月31日に列車でカウナスを出発するまでビザを書き続けたという。


スギハラ通り

リトアニアではいまでも杉原のことが称えられており、リトアニア政府はビリニュスの通りの一つを「スギハラ通り」と命名、記念碑を建立した。杉原がいた旧日本領事館はカウナスに現存している。

1999年、リトアニアおよびベルギーの専門家・実業家によって設立の「杉原”命の外交官”財団」は、この旧日本領事館において杉原の業績を不朽にする活動を続けている。

また2004年には、杉原氏の業績を記念してリトアニア郵便局により特別記念切手が発行された。

1947年日本に帰国した際、事実上外務省を解雇された杉原千畝。日本において杉原の功績が人々に知られるようになったのは、戦後何十年も経った1969年にイスラエル政府が杉原に勲章を授けてから。1985年には同じくイスラエル政府から「諸国民の中の正義の人」として表彰されるものの、外務省は1990年代に入ってからも本省の指示に反した杉原の行動を認めなかった。

杉原の死後15年近く経った2000年にようやく、当時の外務大臣である河野洋平が遺族に謝罪し日本政府による公式の名誉回復が行われた。


ヤン・ズヴァルテンディクと杉原

リトアニアでユダヤ難民に対してビザ発給した人物として、杉浦千畝はいまや国内外で有名だが、もう一人、同様の行動で2000人ほどの人々を救った人がいる。オランダ人ヤン・ズヴァルデンディクは、オランダ企業フィリップス社のリトアニア支社長だったが、1940年5月、バルト諸国担当のオランダ大使 L・P・デ・ドゥデッカーの要請を受けてカウナス領事に就任していた。

ドゥデッカーは、ズヴァルデンディクに対して「スリナム、キュラソーおよび中南米の他のオランダ領に外国人が入国する場合、入国ビザを必要とせず」と宣言した許可を発行することを承認。このオランダ入国ビザを得たものの、西回りの渡航を閉ざされたユダヤ人たちは、極東経由で(名目上)オランダ領へ向かうべく日本の通過ビザを求めに日本領事館へと駆け込んだのである。

ズヴァルディクと杉原間では以前より交流があったと見られ、腱鞘炎になるほど毎日ビザ発給処理をしている杉原へ手書き作業簡素化のためゴム印を送ることもしていた。


BOOK

杉原千畝については多くの本が出版されている。これらの本を読むことによって、杉原が命のビザを発給するに至った時代背景、またインテリジェンス・オフィサー(情報調査官)としてどのような行動をしていたかなども知ることができるだろう。


新版 六千人の命のビザ
<杉原幸子 著、大正出版; 新版 (1994/03)>
千畝の妻、幸子から見たビザ発給のエピソード。リトアニア以前、以降の話も時系列に描かれている。


諜報の天才 杉原千畝(新潮選書)
<白石仁章 著、新潮社 (2011/02)>
公開文書から杉原の足跡をたどってつなぎ合わせることにより、杉原を取り巻く当時の状況を推察する内容。


写真出典:

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