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Relationship ― ミャンマーと日本の『時間軸』を辿る ~ミャンマーとの友好関係の構築・・・テイン・セイン政権期その4

民主化宣言後の総選挙実施に向けて

テイン・セイン政権におけるミャンマー国内外の新たな試みとして最大の山場ともいえるのが公平公正な議会選挙の実施でした。


写真1:テイン・セイン大統領

これまでも議会選挙は行われてきましたが、軍事勢力下における選挙は公正ではないという理由から、所謂民主化勢力側の政党はボイコット、或いは消極的参加に留まり、また欧米諸国からも「軍部の独裁的選挙」とみなされ、国内外であまり評価されていませんでした。(ただ、ミャンマーの選挙はこのような激しい批判に晒される一方で、先般のタイにおける総選挙はそれほど厳しい評価が下された感じがしないのですが・・・。)

その反省からテイン・セイン政権は、選挙実施に消極的な軍関係者の説得はもとより、前回ボイコットしたアウン・サン・スー・チー率いる国民民主連盟(NLD)や多くの少数民族政党等にも説得と説明を行います。そのようにして、国内外からのいらぬ批判を受けないよう慎重に事を進め、2015年11月、民主化宣言後初のミャンマー総選挙が行われることとなりました。

ミャンマーの議会制度

2015年の総選挙は、任期5年の連邦議会と地方議会の一斉改選を目的とする大規模な選挙でした。
この選挙がどういったものだったのかを考える前に、前提となるミャンマー議会制度について見てみましょう。まず、この国の議会制度は連邦議会と地方議会から成り立っており、連邦議会は下院(直訳では人民議会)と上院(直訳では民族議会)の二院制で、下院の定数は民選議席(選挙で当選した者)330と国軍議席(軍人から選出)110の合計440議席、上院の定数は民選議席168と国軍議席56の合計224議席となっています。
特筆すべきは国軍議席で、ミャンマー国軍最高司令官による指名に基づいて大統領が任命、全員が現役の軍人で構成され、更に国軍内の事情によって人事異動の対象ともなっているので、必ずしも軍人議員全員が任期を全うする必要はないという制度になっています。

また地方議会はこれまた複雑な議員定数を定めています。
ミャンマーには7つの管区域と7つの州が設置されており、その中の地域単位である「郡」ひとつから二人の代表者を選出するものと、それに少数民族人口によって議席が加わり、合計880議席が全地方議会の総議席定数という考え方になります。そこに当選者数の3分の1の「国軍議員」が加わって議会運営を行います。

ちなみに、連邦政府の大統領は連邦議会議員である必要はありませんが、地方議会の首長(管区域首相と州首相)はその地域の議員でなくてはならず、かつ大統領による指名と議会の承認で決定します。
このように、解説していても難しいミャンマー議会制度ですが、連邦にしても地方にしても国軍がしっかりと議会に存在しているということはお分かりいただけたかと思います。

選挙に参加した政党など

大規模選挙となった2015年は、多くの政党と候補者が参加しました。


写真2:USDP(連邦団結発展党)の集会の様子

参加政党数は91、政党所属の候補者と無所属の候補者を合わせて、下院選挙に1734人、上院選挙に886人、地方議会選挙に3419人、総計6039人が立候補しました。
これより前の2010年選挙と比べてみますと、参加政党だけでも37政党から91政党へ増加、立候補者は前回選挙の約2倍の数になっています。

これほどまでに増えた最大の理由は、前述のとおりテイン・セイン政権下における自由化、および民主化勢力との粘り強い対話の結果だと思います。2010年の総選挙は軍事政権下で不信感がまだ強く残っていたし、更にその前の1990年の総選挙では、民主化勢力が大勝した選挙結果を完全に無視し弾圧に乗り出したことなどから、民主化勢力との間にある深い溝が選挙によって埋まることはなかったのです。


写真3:NLD(国民民主連盟)の集会の様子

しかし、2011年の民主化宣言後はアウン・サン・スー・チーの軟禁解除、会談の実施、補欠選挙におけるアウン・サン・スー・チーの下院議員当選を経て、政府と民主化勢力の歩み寄りが成功し、この大規模選挙実施へと流れていったのでした。

本選挙における焦点は、民主化勢力がどれほど議席数を伸ばしてくるのか、更に最多議席数獲得となった場合に民主化勢力、特にNLD(国民民主連盟)が政権交代の準備が出来ているのか、一方で政府与党であるUSDP(連邦団結発展党)は政権維持できるのか否か、もし政権交代となった場合にスムーズな権力移行が可能なのか、そしてどのような形であれ選挙結果を受け入れることは出来るのか、というところが注目されていました。

勿論アウン・サン・スーチーも千載一遇のチャンスと捉え、USDPに匹敵する数の候補者を選び、2015年、大規模な選挙活動を繰り広げていきました。そうして民主化運動の旗手であったアウン・サン・スー・チーはこの選挙を通じ、大人物への転換期を迎えることとなります。

(続く)

資料:

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