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Relationship ― ミャンマーと日本の『時間軸』を辿る ~ミャンマーとの友好関係の構築・・・ミャンマー民主化移行期その1

ミャンマー連邦の国旗・国名変更

タン・シュエ議長の下、国家平和発展評議会(SPDC)が立法・行政・司法の三権を掌握して国家運営を行っていた中、2010年10月21日に世界へ向けてミャンマーの国旗の変更、そして名称変更を発表します。このとき、これまでの「ミャンマー連邦」から「ミャンマー連邦共和国」へ、そしてミャンマー国旗の変更となるのですが、ここで国旗についてお話を少ししたいと思います。


画像1:国旗の変遷

ミャンマーの国旗変遷は大まかにこの6つとなります。
①はビルマ王朝のコウバウン朝時代の旗で、王室の象徴である孔雀が描かれています。
②はイギリスの植民地だった時、英領ビルマ時代の旗ですが、宗主国のイギリス国旗と向かって右側に王朝時代の孔雀が描かれています。
③は日本軍政下時代で使用されたビルマ国のデザインで、これにもコウバウン朝の孔雀が描かれており、「黄・緑・赤」の三色がベースとなりました。
そして、④はイギリスからの完全独立後のビルマ共和国期のデザインで、三色から青と赤の色彩に変わり、星が描かれています。
⑤はビルマ式社会主義を掲げた時代、ビルマ社会主義共和国のデザインで青と赤のベースは変わりませんが、星に変わって社会主義らしい歯車と稲穂(労働者と農民の象徴)が描かれています。
最後に現在の⑥のデザインになると③のように三色が復活して社会主義の象徴的デザインから星が再び使用されることとなりました。


画像2:シャン州旗

この三色について、黄色は「国民の団結」、緑色は「平和と豊かな自然環境」、赤色は「勇気と決断力」を意味しており、中央の白星は「ミャンマーが地理的・民族的に一体化する」という意味を込めているそうです。
因みに、この三色のデザインは2010年の国旗変更以前からミャンマー国内のシャン州の「州旗」として使用されており、色配列だけ見ればバルト三国のリトアニアも同じデザインになっています。

当時日本のある研究者の方は、ミャンマーが大東亜戦争期の三色旗に変更を発表したことをうけて、「国内で大きなことが起こり、体制が一新されるのでは」と予測していいらっしゃったそうですが、まさにその通りのことがミャンマー国内で起ころうとしていたのです。

2011年3月30日の布告


写真1:テイン・セイン氏

2011年3月30日、ミャンマーで新しい政権が誕生しました。

内外共に物議を醸し出した2010年の総選挙結果を受け2011年1月31日の連邦議会において、当時首相であったテイン・セインが大統領に、SPDCの第1書記であったティン・アウン・ミン・ウ―(写真後段左)とシャン民族のサイ・マウ・カン氏(写真後段右の二人が副大統領にそれぞれ就任し、新たな閣僚30人とともに政権運営を行うこととなりました。


写真2:ティン・アウン・ミン・ウ―氏

写真3:サイ・マウ・カン氏

更に、SPDCが行政・立法・司法の三権を連邦議会が選出・承認した人物に移管し、SPDCを解散することを記した布告書(SPDC布告第5号)が本議会において、連邦議会議長から読み上げられました。

これにより、1988年9月18日の軍事クーデターによって成立したミャンマーの軍事政権は実に23年という長い期間を経て遂に終結の時を迎え、国家元首として、権力の中心として存在したSPDC議長、国防相、国防最高司令官のタン・シュエも引退へとなっていったのです。

総選挙の結果から、国内外のメディア、世界各国の外交専門家や研究者はテイン・セインをはじめとする新政権の顔触れは、そのほとんどがSPDCの構成メンバーつまり「軍人」であり、引退したとはいえ前議長タン・シュエの影響力は大きいものと結論付け、新政権への期待よりも批判の方が目立つ情勢となっていました。

しかしミャンマー、テイン・セイン政権はこの国内外の批判を一変させるある大きな決断に向って既に動き始めていました。
国際社会での信用や信頼を回復し、「最貧国」の汚名を返上する。
当時我々は気付かなかった、運命の2011年3月31日に向かって、静かに大胆にミャンマーの時間軸は進んでいたのです。

(続く)

資料:

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