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Relationship ― ミャンマーと日本の『時間軸』を辿る ~ミャンマーとの友好関係の構築・・・ビルマ戦後復興編

国内情勢~戦後民族衝突の発端

1948年1月8日、ビルマが「ビルマ連邦共和国」として完全独立を宣言し、自立した国家としてその一歩を踏み出していたころ、敗戦国である日本は連合国軍総司令部(GHQ)の占領政策によって国家の主権を停止することとなりました。 そのため日本とビルマの関係は一時空白の時が流れます。


写真1:ビルマ連邦共和国初代首相ウ・ヌー

その間ここで当時のビルマ国内情勢について少しばかり触れておきたいと思います。
国家独立後、ウ・ヌーが初代首相となり政権運営を行います。しかし脆弱な行政基盤、混乱する軍隊などの治安維持機関、未熟な議会運営など問題が山積していた最中、1949年1月イギリス統治時代に行政府や軍隊の要職に多くの人材を輩出していた「カレン族」が、カレン民族防衛軍(KNDO)を結成してビルマ政府に叛乱を起こします。
何故カレン族は叛乱を起こさなければならなかったのでしょうか?

時は遡り、19世紀初頭ビルマがイギリス植民地となってキリスト教宣教師が聖書を携えてカレン族の土地に現れたとき、ビルマ族の圧制に苦しんでいたカレン族は「これは我々の神話が実現され、圧制から解放される時が来たのだ」と考えていました。
その神話とは、次のようなものです。

―その昔、神によって、それぞれ異なる民族が創られたとき、我々は皆兄弟だった。カレン族はその中でも最年長者にあたり、尊敬を集めていた。あるとき各民族は神から書物を授かった。我々はそれをあろうことかなくしてしまった。我々の貧しい暮らしはそのせいである。しかし、いつの日か海を越え「若い白い兄弟」が我々に書物をもたらしてくれるだろう―

この神話を信じたカレン族は他の民族と比べて抵抗なくイギリス人とキリスト教を受け入れました。やがてイギリス式の教養を身に着けたカレン族は、英領ビルマの官僚や軍人として重用されることになります。

大東亜戦争が勃発し、日本はイギリスの植民地であったビルマを解放するため、ビルマ族のアウン・サン率いるビルマ独立義勇軍に物資を与え軍事訓練を施したことは既にお話ししました。
しかしその一方でイギリス側にはカレン族が付いていました。

イギリスによる少数民族優遇政策で植民地政府や軍隊の主要ポストにカレン族が多く配置されていたため、カレン族・ビルマ族両民族の戦闘を避けることは出来ませんでした。
イギリスへの忠誠を守ったカレン族とビルマ独立義勇軍は各地で激しい衝突を繰り返し、こうして両者の対立感情は増大し修復できないものとなったのです。

やがて終戦・国家独立となり、それを機にカレン族のビルマからの独立を画策していたものにとって、独立を認めない政府へは武装蜂起しかないという考えに至り、決定的な衝突が発生してしまったのです。
この叛乱行動がきっかけとなり、その後現在まで続く国内各所におけるミャンマーの少数民族紛争が始まったものと私は考えています。

日本の対ビルマ戦後賠償とあの集団の絆

さて、日本とビルマの関係が再び動き出すのは1949年です。
戦後深刻な食糧不足に見舞われた日本は、主食である米の供給確保を目的としてビルマから米の緊急輸入を実施します。ビルマにとってお米は主要輸出品であり、外貨獲得手段として有効な作物だったので正に願ったり叶ったり。 とりあえずの急場凌ぎで日本政府は約7万トンの米をビルマより買い付けることを決定します。

戦後間もない状況下で何とか生き残った日本の商社マンは買い付けに奔走しますが、このときビルマ政府要人とのアポイントや円滑な交渉のための下準備に活用されたネットワークがありました。

志半ばで対戦の趨勢により解散を余儀なくされたあの「南機関」です。
戦争後もあの機関は生きていたのです。
当時ビルマ独立政府の要職者にはかつてのビルマ独立義勇軍(BIA)に所属していた者も多く、恩返しとは言わないまでも、南機関の要請を受けかつての仲間である日本の窮地を救ってくれたのです。


写真2:サンフランシスコ講和会議

心温まる出来事の一方で、国と国との外交交渉においては非常にシビアな関係が続きます。 1951年4月28日サンフランシスコ講和条約調印により日本の主権は回復、それと同時に求償国に対する「賠償」が課せられることとなりました。

この賠償関連業務は先の大戦当時国(連合国)すべてではなく、求償は日本との「個別交渉」により結論を出すということになります。
殊に戦後独立を果たした東南アジア各国との交渉に重点が移った際、ビルマも交渉対象国となったため、日本政府は賠償交渉を円滑に進めることを考慮し1951年11月「在外事務所」を設置します。

1952年4月にビルマ政府は日本との「戦争状態終結宣言」を発表、それに伴い「在外事務所」から同年8月「総領事館」の開設に至ります。また国交回復の交渉も同時進行で進められることとなり、1952年4月に日本側からビルマ政府に対して国交回復の申し入れを行います。

しかし、ビルマ政府の反応は非常に鈍いものでありました。
日本としては早期に講和をしなければ、通商航海条約が締結できないためビルマにおける経済発展は困難となり、多くの不便・不利益を被ると考えていたようです。他方ビルマ政府の当時の状況は、中国へ傾倒する対外姿勢が出来つつあったためビルマが経済的に日本へ進出する必要はなく、日緬経済関係は現状のままでも支障はないと考えていたのではと思われます。
さらに賠償についても、その詳細な中身について双方納得する項目が皆無であったということも、早期講和へと踏み出せない状況があったのです。

ちなみにビルマ政府はサンフランシスコ講和会議に招請を受けていたにもかかわらず、実は会議に参加していませんでした。

不参加の理由は、まず講和条約14条「賠償条項」にそもそも不満があったこと、次に琉球(沖縄県)や小笠原に対するアメリカ単独の信託統治の実施と外国軍隊の日本残留への不満、そして台湾の最終的処理に関する規定が欠如していることにより新たな「不和」が発生する虞があることへの懸念だといわれています。

そんなことから、賠償交渉は決裂し平和条約調印は無理ではと危ぶまれた時もあったにもかかわらず、1954年11月5日、ついに日本・ビルマとの間で「平和条約」、そして「経済協力協定」調印にこぎ着けます。

この裏にはある元南機関員の存在があり、そして賠償業務やその後のビルマ復興支援に大きな影響を与える日本の「銀行」が存在していたのです。

次回はその国交樹立・賠償交渉とビルマ復興に寄与した人物と銀行について書きたいと思います。

(続く)

資料:

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