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Our World through Music~
甘い音と巡る世界の響き~Vol.30

ハンガリーの柳田邦男か?

今回は、前回のリストと同じハンガリーの音楽家をご紹介致します。
ベラ・バルトーク。二つの大戦を生き延び、アメリカで亡くなりました。
民族と民俗。音楽の面からそこに取り組んだ国際的音楽家の功績、影響は計り知れません。彼の音楽は現代の我々にも馴染みがある雰囲気です。では、いつものように動画と共にお楽しみ下さい。

1831年、バルトークは現在のルーマニアで生まれました。バルトークが生まれた頃、そこはハプスブルク家支配のウィーン・ハンガリー帝国。彼はハンガリー語を話せないハンガリー人として育ちました。

では、まず彼の代表作として最も「聴きやすい」ものをお聴きください。
「ルーマニア民族舞曲」です。

バルトークは幼い頃から音楽の才能を発揮し、ピアニストの道を目指します。実際にピアニストとして大変長けていたことがわかる作品をお聴き下さい。まるでプログレシヴロックのようであり、ジャズのような響きもある非常に演奏困難な作品です。

この動画の冒頭で語られている通り、大変困難な作品ですが私は特に22:50からの辺りが好きです。日本におけるバルトーク演奏の代表的ピアニストと言っても過言ではないと思っている日置寿美子さん、彼女の演奏でこれを聴いたときの鮮烈な印象は未だに耳に残っています。

バルトークはウィーン音楽院入学後、ハンガリー人の自覚を抱いてリスト音楽院に入学し、ピアニストの道を目指します。そこで受けたコンクールでの成績は2位。相当な腕前があったはず、挫折するほどでもないと私などは思ってしまいますが、日本のコンクールと違い世界のコンクールは優勝者へのマネジメントが手厚いため、背負っているものが大きい人には諦めるだけの違いがあったのかもしれません。ちなみに、その時の優勝者は歴史的ピアニスト、バックハウス。未だに彼のベートーヴェンは語り継がれています。

バルトークはピアニストを諦めたものの、「誰にもできない偉業」に乗り出します。それは、民俗音楽の採集です。最初は、たまたま泊まった宿の娘が歌っていた民謡が美しく、それを書き止めたことから始まりました。その後、音楽学の専門家コダーイと毎年ハンガリーの山奥に録音機を持って採集に繰り出します。

彼は民俗的なものを研究することによってハンガリー人という民族の自立を強く感じていました。というのは、ハンガリーでもエリートとして育てられると自国語ではなくドイツ語で教育を受け、教育内容もハンガリーに由来するものではなくウィーン風となるからです。自分がどこに属するのか、その思いが天才的ピアニストだった彼をそこまで突き上げました。

バルトークは、1906年から1918年までの間、第一次世界大戦で断念するまでライフワークとしてコダーイと共に主にハンガリー国内、アルジェリアやトルコでも研究しました。さながら柳田邦夫のようです。先ほどのルーマニア民族舞曲はハンガリー国内のルーマニア人を対象にした研究の結果ではないかと思われます。

では、ここで一風変わった作品をお聴き下さい。

「舞踏組曲」まるで映画や演劇の音楽のようです。

バルトークの功績として、こうしてリズムや音がはっきりした現代的なものを書いたことが言われるようです。更にバッハ以来の数字列を音楽に取り入れた作品もあります。

天才的ピアノ弾きだった過去から山奥での民謡の研究、そして音列を数学的に扱った実験的音楽(あまりに気難しい音楽のためここではご紹介を省きます)、その二つの性格がアメリカ移住後の晩年には素晴らしい融合を果たします。

オーケストラのための協奏曲。そう、オーケストラの各楽器をソリストのように扱っており非常に演奏困難な曲ですが彼でないと書けない、気持ちが「高い」音楽です。

そして、ヴィオラ協奏曲。

最後になりますが、彼が教育者でもあった側面をご紹介しましょう。
ヴァイオリンのレッスンの際に先生と生徒で弾けるように書いた44のデュオから第1番。なんとも愛情深い数十秒、ここからどれだけのものを受け取れるでしょうか。私が一番好きな彼の作品です。

画像:
  • 「ドナウの真珠」ハンガリー ブタペスト
動画:

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