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Relationship ― ミャンマーと日本の『時間軸』を辿る ~ミャンマーとの友好関係の構築・・・ビルマ・ミャンマー軍事政権期その4

不思議なクーデター

1988年9月18日、当時国防大臣でもあったソウ・マウン大将によるクーデターが決行され、瀕死のビルマ式社会主義政権を終わらせるとともに、彼を「議長」とする「国家法秩序回復評議会」(通称SLORC)を結成、この評議会が新政府となり、ビルマ国軍が国家の全権力を掌握したことを宣言します。


写真1:SLORCの幹部

更に、午後8時から翌午前4時までの外出禁止、5人以上集まっての集会・デモの禁止、無許可の道路封鎖の禁止などの布告を出し国内の秩序回復に尽力していきます。しかしながら、このクーデターは従来のクーデターとは少し様相が違っているという見解があります。

確かにソウ・マウンによる無血クーデターは決行され、マウン・マウン大統領とBSPP(ビルマ社会主義計画党)の人々は放逐される事となるのですが、実は新政府はBSPPを解党させることもなく、むしろBSPPの幹部に政権運営のアドバイスを求めていたという事実があったのです。

ですから、形上は軍事クーデターという強権的な行動であったものの、元を正せば前政権が内部分裂していたわけではなかったので、BSPPの主要幹部とは合意の上でクーデターが決行されたという見解があります。また、決行以前に市民暴動で軍隊が武器を取り上げられるという失態もあったことから、組織の引き締めも兼ねてこのような形がとられたのではとも考えられています。

一方学生・市民側にとっては、彼らが要求してきた「従来の政権に代わる新しい政権」とSLORCは全くイメージが一致しておらず、翌19日から反発した市民らは布告を無視し、武器を片手に道路を封鎖するなどの暴力行為を開始、再び大規模なデモ隊として膨れ上がりました。

国軍は再びこれに対して発砲を実施。布告を無視するものには容赦はしないという、秩序回復への並々ならぬ意思が剥き出しになり決然とした態度が示されます。発砲は市内各所で行われ、全容は把握されていませんが相当数の死傷者が発生し、市民と国軍の衝突はより過激化していくことになります。

激昂した学生や市民は、怒りに任せ軍事政権に武力で対抗しようと交番を襲撃して警察官から武器を奪い、BSSPの事務所や、政府の建物を襲撃、略奪と破壊の限りを尽くします。まさに1960年~70年代にかけての日本の極左暴力集団が横行した時代と同じ状況となり、これに対して軍は徹底的に武力で鎮圧する方針をとったため、各地で内戦のような状態になり、また多くの死傷者を発生させました。

これには市民側のあのアウン・サン・スー・チーもデモ中止を呼びかける有様で、やっとのことで暴動は鎮圧され、秩序の回復へ向けて進み始めることとなります。市民が大暴れする一方、政府内は冷静さを保ちつつ、「不思議なクーデター」は粛々と進んでいたのです。

二度の国名変更と薄れゆく日本との関係

ソウ・マウンによる政権が始まって間もなく、一度目の国名変更が行われます。
これまでのネ・ウィン体制は、ビルマ式社会主義の下に政権が運営されていたため、国名は「ビルマ社会主義連邦共和国」でした。クーデター決行後、まず社会主義を外して「ビルマ連邦」(Union of Burma)となります。

その後1989年、政府はイギリス植民地時代の名称をビルマ語発音に近い綴りにしようという再検討委員会を設置し、その結果6月18日にビルマ連邦から「ミャンマー連邦」(Union of Myanmar)へと二度目の国名変更が行われました。
ここにきて今の「ミャンマー」という名称が使われることとなり、更に当時の首都「ラングーン」も呼び名が「ヤンゴン」へと変更になります。


写真2:アウン・サン・スー・チー

国名・首都名の変更をはじめ、乱れた秩序の回復が最優先課題であったソウ・マウン政権、その力ゆえに市民からは「恐怖政治」という悪いイメージが先行してしまいます。

またこうした権力へ対抗しようと、反政府側はアウン・サン・スー・チーを担ぎ出し、「反権力・民主化の象徴」として祀り上げます。この様子を欧米のメディアが大きく報道し、たちまち世界のマスコミの寵児となっていきました。この対立構造が今に続く「スー・チー=善、国軍=悪」のイメージの始まりでもあるのです。

さて、このころの日本との関係となると、武力鎮圧によって市民が犠牲者となる事態を憂慮した日本政府は、継続して行ってきていた経済支援を一時凍結する決定を下します。
これは日本の意思というよりも、欧米による制裁発動に右へならえをしたという方が適切かもしれません。

その後ソウ・マウン政権を正式な国家代表として承認するも、人道的支援と契約期間中の経済支援についてのみ継続し、その後は大半の支援を凍結するという措置を講じることになります。戦後賠償から長きに亘って支援をしてきましたが、これによりミャンマー、そして日本を取り巻く環境は複雑かつ厳しいものとなり、両国の友好関係も次第に薄れていくことになってしまったのです。

(続く)

資料:

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