World Map Europe

東方正教会 ― 知られざるキリスト教文化圏
Ⅶ おわりに ― 日本における正教会

これまで、正教会が地域の歴史文化や民族的アイデンティティに関わってきた実例として、一般の日本人があまり知らない正教文化圏の国の中からセルビアとジョージアを取り上げ、具体的にご紹介してきました。今回、日本国内の正教会をご紹介して、この連載を締めくくりたいと思います。

日本に正教会の教えを伝え、日本正教会(現在の日本ハリストス正教会教団)を創立したのは、ロシア出身の宣教師で後に大主教となったニコライ・カサートキン(写真1、1836-1912)です。
1853年の黒船到来を契機に、それまで鎖国政策を続けていた江戸幕府が開国に転じ、1858年にアメリカ、オランダ、ロシア、イギリス、フランスの5か国とそれぞれ修好通商条約(安政五ヶ国条約)を締結。これに基づき横浜、函館、長崎の三つの港が西洋諸国との窓口として開かれました。


写真1:ニコライ大主教

帝政ロシアは函館に領事館を開設。その領事館付きの司祭としてニコライが1861年に着任しました。領事館の敷地に建てられたチャペルは日本で最初の正教会の聖堂であり、現在は函館ハリストス正教会として、函館で一番の観光名所となっています。最初の聖堂は1907年の函館の大火で焼けたため、1916年に現聖堂が建てられ、現在は国の重要文化財に指定されています。(写真2)


写真2:函館ハリストス正教会

ニコライは日本での布教を志していましたが、来日当時の我が国ではキリスト教信仰は固く禁じられていました。しかし、明治新政府がキリスト教の布教を解禁したことを受け、ニコライは本部を1872年に東京・神田駿河台へ移転、現在に至っています。
その後ニコライは神田を拠点にして日本人宣教師の人材育成と、聖書や祈祷書の日本語への翻訳に生涯取り組みました。その結果、国内各地で布教活動が行われ、聖堂が建てられたのです。
それらの聖堂の中心となるものは、1891年に本部の敷地に建てられた東京復活大聖堂です。これは当時の東京で最も大きな建築物の一つであり、建立者のニコライの名にちなんでニコライ堂という愛称で呼ばれました。この大聖堂は1923年の関東大震災で大きく損壊しましたが、1929年に再建され、現在は函館ハリストス正教会と同様、国の重要文化財に指定されています。(写真3)


写真3:東京復活大聖堂(ニコライ堂)

ニコライは明治の最後の年、1912年に永眠しましたが、その時点で全国の信徒数は33千人に達しており、国内の教派ではカトリック教会に次ぐ2位の教勢がありました。しかし、1917年のロシア革命で、日本正教会の運営資金を提供していた帝政ロシアが崩壊。その後は関東大震災による本部の壊滅的な被害、昭和の戦時体制下でのキリスト教会迫害、戦後の米ソ冷戦時代のロシア嫌いな国民感情など、様々なマイナス要因が作用して、現在の信徒数は全国で9485人(2018年5月時点)に留まっています。

しかしながら、現在も国内に存続している正教会は65あり、上記の函館ハリストス正教会と東京復活大聖堂に加えて、1913年に建てられた豊橋ハリストス正教会(写真4)が国の重要文化財に指定されています。またその他に、以下の聖堂は自治体の文化財に指定されています。(カッコ内は建築年、所在地、文化財の区分。現在教会として使われていない建物は除く)

北鹿(1892年、秋田県大館市、秋田県指定有形文化財)
白河(1915年、福島県白河市、福島県指定有形文化財)
修善寺(1912年、静岡県伊豆市、静岡県指定有形文化財)
京都(1903年、京都市中京区、京都市指定有形文化財)

これ以外の教会の情報は日本正教会公式ホームページ(http://www.orthodoxjapan.jp)をご参照ください。


写真4:豊橋ハリストス正教会

これまでの2年間の連載で、日本であまり知られていない東方正教会の歴史と文化についてご紹介してきました。皆さまのご愛読に感謝申し上げますとともに、いつか日本国内、あるいは海外の正教会に足を運ばれ、東方正教会への関心をますます深めていただくことを願ってやみません。(完)

写真:
  • 写真1:「ニコライ大主教」、日本ハリストス正教会教団所蔵
  • 写真2:「函館ハリストス正教会」、wikimedia commonsより転載
  • 写真3:「東京復活大聖堂(ニコライ堂)」、日本ハリストス正教会教団所蔵
  • 写真4:「豊橋ハリストス正教会」、wikimedia commonsより転載

コメントはこちらから

メールアドレスが公開されることはありません。

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)