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東方正教会 ― 知られざるキリスト教文化圏
Ⅴ 正教会の祭と民間の伝統行事 ― 1.斎(ものいみ)

正教会には年間を通して実にたくさんの祭があります。そして正教会の信仰が定着している国や社会では、祭は単に教会での礼拝にとどまらず、民間行事や生活習慣と深く結びついています
今回は正教会の祭について見る前に、まずそのための心の準備期間としての習慣、(ものいみ、Fast)についてご紹介します。

斎とは、大きな祭の前の一定期間や特定の日(たとえば毎週水曜日と金曜日など)に、動物性食品を断つことを指します。より厳密には軽い順に「肉だけを断つ」「さらに乳製品や卵など、鳥獣に由来する食品は全て断つ」「さらに魚も断つ」「さらに酒やオリーブ油も断つ」というように、日にちによってレベルの違いがあります。しかし一般的な正教社会では、斎は単純に肉や卵、乳製品などを食べられない期間と認識されているようです。

ユダヤ教社会では古来、斎として特定の日に何も食べない、すなわち文字通り断食が行われてきました。また類似の宗教的習慣としては、日中は何も飲食できないというイスラム教のラマダンが有名です。しかし、キリスト教においては、全ての飲食を機械的に断つのではなく、その斎が行われる当日や、これから迎える祭の神学的な意味を理解し、心の準備として食材を選んで自発的に控えるという位置づけになっています。面白いのは、イカやタコ、カニやエビ、貝類など、魚でない水産物はユダヤ教では年間を通して食べてはいけないのに対し、キリスト教では斎でも無制限に食べてよい食材であり、宗教的な理解が異なっています。
このように斎は、キリスト教において従来のユダヤ教的な考え方を見直して定着した古くからの伝統であり、正教会では今でも続いていますが、現在のカトリック教会では事実上失われています。またプロテスタント教会ではそもそも、食の斎という概念自体がありません。

筆者は昨年、ジョージア(旧称グルジア)を訪ねましたが、ちょうど大きな祭をはさむ時期でしたので、祭の前の斎と祭のお祝いの両方の食事を経験することができました。斎の料理では見かけは豪華でも、全て野菜やキノコ、豆類などの植物性食品であるのに対し(写真1)、


写真1:斎期間中のジョージア料理

祭の礼拝が終わって教会でいただいた料理は肉やチーズをふんだんに用いており(写真2)、内容がガラリと変わっています。


写真2:祭の日のジョージア料理

正教会において最も大きく重要な祭は復活祭ですが、その準備のための斎の期間も年間で最も長く、約7週間あります。そのため、他の斎と区別して大斎(おおものいみ、Great Lent)と呼ばれています。ちなみに2017年の大斎は2月26日(日)の日没から始まり、復活祭前日の4月15日(土)までです。


写真3:マースレニツァのブリヌイ

大斎に関連する民間の伝統行事として有名なのは、何といってもロシア文化圏のマースレニツァでしょう。これは大斎の前の一週間、毎日大量のクレープ、ロシア語でブリヌイ(写真3)を作って食べ続けるものであり、それに付随して我が国のどんど焼きのように無病息災を願って藁人形を燃やしたりします。観光ガイドなどには「異教時代からある春を迎える祭」「クレープは太陽の象徴」等々、まことしやかに書いてありますが、本来は大斎に入る一週間前から既に肉だけを断つ斎が始まっており、残り一週間の乾酪週間(かんらくしゅうかん、Cheese Fare Week)でバターやチーズなどの乳製品を食べ尽くすという、正教会の教えに基づく習慣です。その食べ尽くすための手段として、ロシアではバターをたっぷり使ったブリヌイを食べ続けるというわけです。ちなみにマースレニツァとは、ロシア語でバターを意味するマースラに由来する単語です。確かに藁人形を燃やしたりするのは、異教時代の春の祭の名残ですが、それを乾酪週間に合わせてやっているに過ぎません。

皆さんはカトリック社会の年中行事であるカーニバル(謝肉祭)という言葉はよくご存じでしょう。ブラジルのリオデジャネイロのカーニバルは世界的に有名です。このカーニバルは元来、大斎(カトリック教会では四旬節という)に入ると肉が食べられなくなるので、その前にご馳走を作って肉を食べ尽くすという習慣に由来しています。しかし、だんだんお祭り騒ぎの方がメインとなっていき、さらに現在のカトリック教会では長期間の断肉という教え自体がなくなったので、今は本来の目的を知っている人の方が少ないかも知れません。
その意味において、マースレニツァは正教社会のカーニバルと言えるでしょう。幸いなことに正教会では斎の習慣が生き続けていますので、本来の意味も忘れられずに済んでいるかもしれません。

写真:
  • 写真1:『斎期間中のジョージア料理』、筆者撮影
  • 写真2:『祭の日のジョージア料理』、同上
  • 写真3:『マースレニツァのブリヌイ』、スプートニク2017年3月13日配信分より転載
参考文献:
高橋保行『ギリシャ正教』講談社学術文庫

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