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東方正教会 ― 知られざるキリスト教文化圏
Ⅱ 正教会とカトリック教会 ― キリスト教会の東西分離

4世紀にキリスト教がローマ帝国の国教となり、教会は大きく発展しました。特にコンスタンチノープル、ローマ、アレクサンドリア、アンティオキア、エルサレムの5都市がキリスト教の中心地となりました。後に皇帝ユスティニアヌス1世(527-65)はこの五つの都市を指して「宇宙の五感」と呼んでいます。(現在コンスタンチノープルはイスタンブール、アンティオキアはアンタキヤという名称で、ともにトルコ領。)

しかし5世紀、ローマ帝国に大きな転換期が訪れます。それはゲルマン民族の大移動です。
蛮族と呼ばれていた彼らは、現在の西欧、すなわちドイツ、イタリア、フランス、スペイン、イギリスなどのローマ領だった地域に侵入して、そこを支配しました。つまりローマ帝国の版図はバルカン半島や中近東、エジプトなどの地域に限定され、西欧地域は非キリスト教徒の支配下におかれることになったのです。ちなみに東方に存続したローマ帝国は、それ以前の時代と区別するために、歴史学では通常「ビザンチン帝国」と呼ばれます。

その後、ローマを中心とする教会のグループはゲルマン民族への宣教を進め、彼らをキリスト教に改宗させることに成功しました。ローマ教会の首座主教は教皇(パパ)と名乗り、ゲルマン諸国の支持のもとで大きな権威を持つに至ります。

とりわけ、それらの諸国の中で最も強大だったカロリング朝フランク王国は教皇と密接な関係を持ち、国王ピピンは756年、イタリアの領地を教皇ステファヌス3世に寄進しました(ピピンの寄進)。これにより教皇は宗教指導者にとどまらず、世俗の君主としての地位をも確立しました。これが教皇領の始まりです。教皇領は1870年にイタリア統一王国に併合されましたが、1929年にバチカン市国として独立したことで、教皇は現在もローマ教会の首座主教と独立国の元首の両方の立場にあります。


写真1:カール大帝

さらにピピンの子のカールは792年にカロリング文書を教皇に送りました。これはビザンチンの教会を批判し、皇帝の権威を失墜させる内容であり、自分こそがキリスト教世界の唯一の支配者であると教皇に認めさせるためのものでした。そして800年のクリスマスに、バチカンのサン・ピエトロ大聖堂で、カールは教皇によって「ローマ帝国皇帝」に戴冠され、カール大帝(シャルル・マーニュ)と呼ばれるようになります(写真1)。また教皇が授ける皇帝の称号は後に「神聖ローマ皇帝」と呼ばれ、1806年まで存続しました。ちなみにドイツ語で皇帝を意味する「カイザー」(Kaiser)という単語は、ローマ皇帝への呼称であったユリウス・カエサルの名にちなむものです。

この出来事が意味するのは、これまで地中海社会において一つしかなかった「帝国」が、ビザンチン帝国と神聖ローマ帝国の東西二つになったために、世俗の権力者である皇帝だけでなく、教会もビザンチンとローマの東西二つの権威が存在するようになったということです。

その後、東西の教会間での神学や典礼上の相違点が次第に顕在化していき、ついに1054年、東西教会は分離を宣言するに至りました。これを「大シスマ」(シスマはラテン語で「分裂」の意味)といいます。

しかし、これは必ずしも東西間の宗教戦争を意味するものではありません。なぜなら、7世紀にムハンマドによって勃興したイスラム教がめざましく拡大して、11世紀の時点では中東や北アフリカの全域を支配するに至っており、東西キリスト教社会共通の最大の脅威となっていたからです。

1095年、イスラム教徒との戦争に苦しんでいたビザンチン皇帝アレクシオス1世は、教皇ウルバヌス2世に救援を依頼。これを受けて聖地エルサレムをイスラム教徒から奪還することを目的に、第一回十字軍が結成されました。十字軍はエルサレムを含む中東地域を占領。そこに西欧人を君主とする国々を建国しました。これを「十字軍国家」といいます。


写真2:サンマルコ大聖堂の馬像

その後十字軍遠征は何度も行われましたが、1204年の第四回十字軍はイスラム教徒ではなくビザンチン帝国を攻撃し、1261年まで支配しました。またこの時に略奪された財宝の多くはヴェネチアに持ち去られました。現在もヴェネチアのサンマルコ大聖堂に、有名な4頭の馬の銅像をはじめとする略奪品が保管されています。(写真2)

同じキリスト教徒であった西欧諸国とローマ教会が、ビザンチンを「異教徒」とみなして攻撃したことは東西教会の一致の試みを絶つに等しいものであり、東方正教会とローマ・カトリック教会との分離が決定づけられて現在に至っています。

(続く)

資料:
  • 写真1:アルブレヒト・デューラー画『カール大帝』、ニュールンベルク・国立ゲルマン博物館所蔵。
  • 写真2:銅像『4頭の馬』、ヴェネチア・サンマルコ大聖堂所蔵。
参考文献:
Thomas Hopko “The Orthodox Faith vol.3, Bible and Church History”, 1981, Orthodox Church in America

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