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Relationship ― ミャンマーと日本の『時間軸』を辿る ~ミャンマーとの友好関係の構築・・・ミャンマー民主化移行期その3

民主化宣言後のテイン・セイン政権とスー・チー氏

「民主化宣言」を行ったテイン・セイン政権時代、国内外はどのような状況であったのでしょうか。
軍事政権ナンバー4だったテイン・セイン大統領、そして野心満々だった当時ナンバー2のシュエ・マン将軍がまさかの下院議長(格下)に就任、といった予想外の人事だけでも民主化進展のポイントが潜んでいたようにも思えます。また、奇しくも当時北アフリカのチュニジアで独裁政権を打倒した所謂「ジャスミン革命」がおこり、後に「アラブの春」となって周辺国を変革へと飲み込んでいく流れが、偶然にも連動するかのような世界情勢でした。

さて、変革を試みたテイン・セイン政権、最初はなかなかスムーズに事が運びませんでした。まさに「生みの苦しみ」を味わいますが、それでもいくつかの新しい試みを行っていきます。


写真1:演説するテイン・セイン大統領

まず2011年4月11日にスー・チー氏と親交のあったミン博士を政権の経済顧問に任命し、翌5月にはこれまで収監されていた受刑者に恩赦を実施、死刑は終身刑に、そしてその他の受刑者の刑期を1年減刑するということにより、約1万5千人が解放されました。
ただし解放された受刑者のうち政治犯は100人程度、当時ミャンマーに政治犯が約2000人存在するとされていたため、「とても恩赦とは言えない」とスー・チー氏は酷評します(ホントに厳しい頑固な人なのです)。

また、6月には少数民族武装勢力のカチン独立軍と国軍が戦闘を再開、更にミャンマー内務省はスー・チー氏と所属政党国民民主連盟に過度な政治活動の制限を警告するなど、この頃まではスー・チー氏をはじめとする民主化勢力や少数民族武装勢力などに対する新政権の姿勢は、軍政時代と大きな相違がありませんでした。

テイン・セイン政権に柔軟性が見え始めたのはその年の7月、同月19日に開催された「殉難者の日」(アウン・サン将軍が暗殺された日、ミャンマー国内では哀悼の意を表するために休日となっています)からで、実に9年振りにスー・チー氏はその式典への参加が許されました。

自宅軟禁解除以来初めて公の場所に姿を現したスー・チー氏は、同月25日にアウン・チー労働大臣(軍事政権下ではスー・チー氏との連絡担当大臣でした)と会談を行います。おそらくはこの時に政権との和解と協力、テイン・セイン大統領との会談実現に向けた交渉が行われていたものと思われます。

それまでなかったことですが、スー・チー氏はその会談から3日後、テイン・セイン大統領と少数民族武装勢力に対し「停戦」を求める書簡を発出します。
これは過日の会談の成果ともみられ、政府と対抗勢力との仲介の試みであったともいわれています。

抵抗勢力から協力者へ

8月14日、スー・チー氏はミャンマーの中心都市ヤンゴンから北方へ進むこと約80キロのところにある都市バゴーで地方遊説を行いました。かつては民主化の旗印のもと、辛辣に国軍や政権の批判を行っていたスー・チー氏、しかしテイン・セイン政権との対話のなかで、大きく変わっていくことになります。

バゴーでの演説は、政府批判を非常に慎重に避けるとともに規制をしていた治安当局とのトラブルも一切ないという落ち着いたものでした。政府とスー・チー氏側の合意に基づくパフォーマンスであったことは間違いありませんが、これはスー・チー氏が抵抗勢力から協力者へと変わる大きな転換点となりました。
そしてテイン・セイン大統領も動きます。


写真2:テイン・セイン、
アウン・サン・スー・チー会談

8月19日、経済顧問であるミン博士が首都ネーピードーで主催した「経済発展のための改革に関する国民ワークショップ」において、初めてこの地を訪問したスー・チー氏とテイン・セイン大統領の会談が実現します。

会談が行われた部屋には、アウン・サン将軍の写真が飾られており、これはテイン・セイン大統領からスー・チー氏へのメッセージであったと考えられます。
この時スー・チー氏は「大統領は本気で改革をしようとしている」と語り、その後も折りに触れて「大統領が進めようとしている改革を後押しすべきだ」という発言を繰り返すようになります。

こうして、テイン・セイン大統領とスー・チー氏の歴史的会談は成功裏に終了し、この光景を見た欧米をはじめとする世界各国の政府やメディアは、テイン・セイン政権が信頼に足る政権であると認識し始めます。
「開かれた国家」をアピールし新政権発足から半年を経過したミャンマーでは、テイン・セイン大統領のイニシアチブのもと、スー・チー氏ら民主化勢力との対話や協力が着実に進み始め、この機をとらえて続々と海外の政府関係者がミャンマーを訪れました。

アメリカはリバランス政策の下、ヒラリー・クリントン米国務長官が11月に国務長官としては実に56年ぶりにミャンマーを訪問、スー・チー氏とテイン・セイン大統領と相次ぎ会談します。ミャンマー制裁の筆頭であったアメリカが政策変更したことによって、ミャンマーの動向は白日の下にさらされ、ミャンマー自身も改革を後戻りさせるわけには行かなくなります。

因みに日本も12月25日に民主党(当時)の玄葉洋一外相が会談を行っております。
こうしたミャンマーの民主化に対するテイン・セイン政権の取り組みは、「アラブの春」のその後の惨憺たる末路を思えば、もっと評価されて良いのではと私は強く思っています。

(続く)

資料:

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