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Relationship ― ミャンマーと日本の『時間軸』を辿る ~ミャンマーとの友好関係の構築・・・ミャンマー民主化移行期その2

2011年3月31日の演説

2011年3月は、日本に住む者にとって大変辛く悲しい月でありますが、ミャンマーの人々にとってこの月は大変驚くべき変革の始まりの時となりました。

2011年3月30日に発足したテイン・セイン政権は、翌日の3月31日に国内外の報道機関を呼び、大統領府において次のような施政方針演説を行いました。

「新政権の最重要の課題は、よい統治と汚職のない政府を作るために、共に働くことである。そのために、連邦政府、州・地域政府は透明で説明責任を有し、憲法と法律にもとづいた仕事をしなくてはならない。国民の声を尊重し、すべての国民が参加できるようにしなければならない。政府の仕事は迅速、かつ効果的でなければならない。」

ミャンマーの民族衣装を着たテイン・セイン大統領、そして同じ衣装を着た二人の副大統領はミャンマー国民へ、世界の人々へ新たな政権の方向性を示しました。2010年に退役したとはいえ、軍服ではない、見慣れない大統領の姿にも国民は驚き、更に、汚職のない政府、国民の声を尊重、透明性や説明責任など、およそ軍事政権では聞いたことがない言葉が発せられたことにもミャンマー国民だけではなく世界の人々が驚きを隠せませんでした。

そしてこの施政方針演説は『ミャンマーの民主化宣言』として捉えられ、ミャンマー政府が軍政を脱し、民主政府へと転換してゆく始まりの日として歴史に刻まれてゆくことになります。

民主化へ決断したテイン・セイン


写真1:テイン・セイン大統領

さて、ミャンマーはこれより民主化へ向かって時間軸が進んでいくわけですが、どうしても世間の多くの方のイメージは『民主化=スー・チー女史』となってしまっています。
勿論彼女はきっかけを作った重要な人ではありますが、あれだけ梃でも動かなかった軍事政権を大きく動かしたテイン・セイン氏にもスポットライトが当たっても良いのではと思い、本コラムではテイン・セイン大統領について書いていきたいと思います。

正直申し上げますと、テイン・セイン大統領は余りと言いますか全く期待はされていませんでした。
一つには、前年に行われた総選挙が欧米をはじめとする国内外で不評だったため。もう一つには、テイン・セインは軍政時代、上官の命令に逆らうことはない官吏タイプとも評されておりタン・シュエ前議長の信頼が厚い人物でした。なので大統領として指名されたのは、タン・シュエ自身が引退後に自らの安全、つまり政権時の不祥事で訴追されないことやいずれ自分を頼ってくるだろうという『裏で糸を引く』傀儡政権を作るためだったのではという噂が影響していると言われています。

しかし、他人の評価とは実にあてにならない典型例なのかもしれません。その大方の予想に反してテイン・セインは『改革者』であったのです。
施政方針演説の後、テイン・セインは「各政党やグループに対しミャンマーの民主主義の発展のために新政府との協力を求めたい」と国民和解への姿勢を示し、「国民生活の向上を期し、市場経済体制の構築に向けて税制、政策決定、法整備等を進める」と宣言します。更に外交面では「引き続き非同盟政策を維持し、全ての国との友好関係を維持する」と述べて、「国民の基本的権利の保障」、「農民及び労働者の権利に関する法整備」、「教育・保健分野の法整備」等を基本方針とすることを国内外に表明しました。

そしてこれも予想に反してですが、政権移管後にタン・シュエがスッと政界から身を引き、二度と表舞台に出てこなかったことも実に幸運だったと言えるでしょう。
かくして、テイン・セイン大統領は今までの政権に無かった政策を実行に移すための準備に入って行くのでした。


写真2:アウン・サン・スー・チー邸の入口門

実施の日付は前後しますが、刑務所に投獄されていた政治犯の釈放、報道の検閲廃止とデモ行進の解禁、少数民族との停戦と和解交渉の開始、経済改革の推進と行っているなかで、「国民和解」のための重要人物、アウン・サン・スー・チー女史との面会が計画されます。

かつては軍政幹部と民主化運動家、長い時間の反目を経て、協働することを目指すテイン・セイン政権のアプローチにどのように応えるのか。
テイン・セインだけではなくアウン・サン・スー・チーも大きな転換への決断をあの門の向こうで迫られていたのです。

(続く)

資料:

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