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Relationship ― ミャンマーと日本の『時間軸』を辿る ~ミャンマーとの友好関係の構築・・・ビルマ・ミャンマー軍事政権期その3

国内混乱の様相

長期に亘ったネ・ウィン時代が政治・経済の混乱とビルマ国民の行動によって終わりを迎え、ビルマは再び混乱の渦に巻き込まれていきます。
前回はその様子について表層の部分だけ触れましたが、国内混乱を最終的に鎮めたソウ・マウン将軍が登場するまでには複雑な紆余曲折を経ていますので、今一度そのことについてお話ししたいと思います。

1988年当時の国内には長期政権による閉塞感、停滞感、失望感が鬱積し、国民の間では「一日でも現状に我慢できない。」、「今すぐにでも世の中が変わってほしい」という現状変革意識が頂点に達していました。国内のあちこちに感情的な爆発要素をはらみつつ、街中が殺伐としていたそんな最中に事件が発生します。


写真1:ラングーン工科大学(現ヤンゴン工科大学)

1988年3月、ラングーン工科大学近くの喫茶店で、大学生と来店した酔っ払いとの喧嘩が発端となる騒ぎが発生、瞬く間にラングーン市内一帯に広がる大騒乱となっていきます。
この騒乱は政治とは全く無関係の偶発事案でしたが、この事件の処理対応に不満を抱いた学生が治安当局に抗議に出向き、さらにその時の対応に立腹した学生側が投石等を開始、これに治安当局が銃器で応戦して学生側に死者が出る大惨事となりました。

こうして連日学生が街頭デモを繰り返すようになり、やがて一般市民が加わって騒ぎがさらに拡大していくことになりました。

ネ・ウィン退陣で政治混乱へ


写真2:セイン・ルイン

学生によるデモが連日行われていくようになり、絶対的権威であったネ・ウィンも自分の終わりを認めざるを得ない時が迫っていました。デモが頻発する1988年7月、自らの支持政党BSPP(ビルマ社会主義計画党)の議長を辞任し、後任に党副総書記のセイン・ルインを選出します。

ただしこのセイン・ルイン、国民からは至極評判の悪い人物で、彼は長年公安・治安の実質的担当者として権力を揮い、国民に対して容赦ない弾圧を加えてきた経歴がありました。それゆえに国民は激しく反発しデモの規模も拡大していく中で、同年8月に当局は国家非常事態を宣言、戒厳令が発動されるまでになりました。


写真3:マウン・マウン

そして1988年8月8日、前回お話しした「8888運動」が盛り上がり、大規模なデモ、ゼネストが開始され、それに対抗するため治安部隊が再び銃器による強行排除に乗り出し、多くの死傷者と逮捕者を出しました。それでもひるまなかった市民に対して一層態度を硬化させた当局は、軽機関銃による無差別発砲や負傷者を運び込んだ総合病院に向けて発砲、互いにバリケードを築き、まるで市街戦の様相を呈することになります。

このような事態もあって、セイン・ルインは就任からわずか18日間で議長職を追われることとなり、長年ネ・ウィンの側近として仕えてきた文民の法律学者マウン・マウン博士が後任として選出されました。これには文民を据えることによって事態を鎮静化させる当局側の狙いがあったのではないかと思います。

民主化への機運と暴力行為

当局の読み通り、マウン・マウンの就任当初こそ国民は平静を保つようになったものの、現状変革意識から民主主義への転換を図ろうとする者たちが市内で集会を開き始めます。
ただこの時はまだ発砲など軍の行動は抑えられており、市民も秩序を保ち行儀良いデモを行っていました。その集会で演説に立つようになっていったのがアウン・サン・スー・チーです。

しかし一方で、騒然とした空気が奇禍として訪れてきます。
このころから街中に強盗が跋扈するようになり、国営工場や商業倉庫が襲撃されるばかりでなく個人宅への襲撃、更には軍の手先とされた人々への集団暴行が横行、「斬首」などの虐殺へとエスカレートしていきます。デモに参加していた市民のほとんどは善良な人々でありましたが、一方で暴力行為に及んだ人々の中にも一般市民は存在しています、ですから民主化要求デモの参加者の中にも暴力行為に及ぶ人々が紛れ込んでいたことは否めません。

かくして国内安定に有効打を出せない政府当局に対し、事態収拾を早期に図るべきとする国軍の一部グループが決起します。これが1988年9月18日、ソウ・マウン国軍最高司令官らによるクーデターとなっていくのです。

(続く)

資料:

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