World Map Asia

Relationship ― ミャンマーと日本の『時間軸』を辿る ~ミャンマーとの友好関係の構築・・・ビルマ・ミャンマー軍事政権期その2

日本側のネ・ウィン評

前回は、軍事クーデターによりネ・ウィン将軍が政権を掌握したものの、「ビルマ式社会主義」という特異な国家運営方針を取り続けたためビルマ国内が次第に混乱してゆく状態をお話ししました。

ネ・ウィン政権はいつからいつまでかという時間軸のとり方は、それぞれ研究者によって違うのですが、私は1962年3月のクーデターから1988年9月失脚までの約26年間としたいと思います。日本は26年間、このネ・ウィンが独裁する社会主義政権と付き合うことになりますが、意外にも、世界的には独裁者と見られていたネ・ウィンのことを日本では概ねかなり好意的に評価していました。


写真1:1962年発行ビルマの切手

過去振り返れば、ネ・ウィンは「30人の志士」の一員であり、ビルマ独立軍(BIA)の幹部でもありました。そのころから性格は、「真面目、親日的、清廉潔白で汚職を嫌う」とされて日本政府から見てとても好ましい指導者であったそうです。

おりしも世界が東西冷戦に突入していた時代において、西側陣営の一員としてアジアに共産主義国が増えることを望んでいなかった日本は、「ビルマ式社会主義」がソ連の共産主義や中国の共産主義とも一線を画すものであると判断します。むしろビルマがインドシナ大陸共産化を防ぐ「最後の砦」になることを期待し、またすでに始まっていた戦後賠償や銀行の業務改革、工業化四大プロジェクトといった日本の対外政策の遅滞なき施策の推進が望まれていたため、ほかの西側諸国とは違い、かなり前のめりに経済支援を行っていくことになります。

はじめは良かった両国の繋がり

ネ・ウィンは前政権と同じように、中立主義を掲げて対外政策を行っていきます。ただ、どちらかといえば日本の「鎖国政策」に近い消極的な中利主義であったため、政府間の経済援助も本当に信用している国からしか受けませんでした。工業化に重点をおいていた当時の政権としては、日本と西ドイツの工業技術を大きく評価していましたし、政権運営に関して特段の注文をつけない両国はビルマ側にとって好都合でもありました。

したがって当時は、旧宗主国のイギリスは言うまでもありませんが、米国・中国・ソ連といった大国とは政治的問題回避の観点から経済協力は活発に行わなかった一方、日本と西ドイツからの援助額は増加していきました。そのなかでも日本の援助額は飛びぬけて多く、援助国の中で一位を占めていました。具体的には、1975年より始まった無償資金協力は、1988年の失脚までの13年間で総額940億円行われています。


写真2:アウン・サン勲章を受けた元南機関関係者

なぜこれほどまでに支援をしたのかを考えるとき、もちろんそれぞれ国の思惑はあったにせよ、やはり過去から積み上げてきた歴史の事実が日本との関係に一定の影響を与えたと考えられます。

また、ビルマ側の「変化」というものも見受けられました。
1972年にそれまで「ファシスト日本に反抗した日」と命名されたアウン・サン将軍の対日蜂起記念日(3月7日)が「ファシストに反抗した日」と改称されたり、1981年1月、ビルマ政府から故鈴木敬司大佐をはじめとする元南機関関係者7名へ「アウン・サン勲章」を授与することが発表されたりなど、関係強化を志向したいという強いメッセージが送られていました。

破綻したビルマ経済と新たな人物の登場

日本は当時の政権を見据えて好意的に経済援助を行ってきました。
しかし、情や馴染みだけで援助を続けるわけにはいきませんでした。結果としてネ・ウィンによる経済開発は、前回申し上げたとおり破綻に向かって進んでいきます。

特に1985年以降の円高・マルク高により対外債務返済額が急激に膨張し、日本と西ドイツの支援に依存していたビルマは、両国通貨の騰貴によって国家経済が致命的となります。
1987年には国連より「最貧国」のレッテルを張られてしまい、日本の円借款に対する返済も滞るに至り、遂には日本政府による新規の円借款停止を受けることになるのです。

日本の支援が止まった直後、さらに追い打ちをかけることがビルマ国内で発生します。
1988年ビルマ式社会主義を掲げた政権運営に不満を抱いていた国民が首都ラングーンで蜂起、経済の立て直しや国内の体制変革を要求する大規模なデモが多発します。


写真3:ビルマ国軍 ソウ・マウン将軍

26年という長期の政権となっていたネ・ウィン政権から数えきれない綻びが発生し、理想としたビルマ式社会主義体制に限界が生じていたのでした。
7月末にネ・ウィンは失脚、その後ビルマ社会主義計画党の人間に政権をゆだねますが、混乱は収まらず、結局新たな国軍のリーダーとなったソウ・マウン将軍により、再度クーデターという形で事態の収拾が行われました。

長期政権支配後、再び混迷を極めるビルマ。やがてこのデモから新たな国民の「看板」が登場し、また、ビルマ社会主義共和国から「ミャンマー」へと国名が改称されてゆく時の流れは、次回お話ししたいと思います。

(続く)

資料:

コメントはこちらから

メールアドレスが公開されることはありません。

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)