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Relationship ― ミャンマーと日本の『時間軸』を辿る ~ミャンマーとの友好関係の構築・・・ビルマ・ミャンマー軍事政権期その1

支援を受けていたのに国家運営は失敗の連続?

本コラムでは、日本とミャンマーの友好関係構築の過程についてお話ししています。
これまで大東亜戦争、敗戦からビルマ独立、戦後賠償と国交回復、ビルマ国家経済の安定化に寄与す日本の経済支援、工業化4大プロジェクト等を取り上げてきました。

戦争で疲弊したビルマといえども、ここまで多彩な支援を受けているならば日本のように「高度経済成長」を遂げることも可能だったと思います。しかし現実はどうでしょうか?
実際は見出しにも結論が反映されているように、国家運営は大失敗を犯してしまうのです。何故このような失敗に至ってしまったのでしょうか、今回は当時の国内状況をお話しします。

かつての同志が犯した失敗の序章~ビルマ式社会主義


写真1:ネ・ウィン将軍

失敗の序章を知るために、時間軸を一旦「1962年」に戻します。
当時は連邦国家として不安定ながらもウ・ヌーが政権を担っていました。しかし、1949年のカレン族の叛乱に端を発した各地の少数民族の分離独立叛乱により、連邦国家制度に重大な危機が訪れていると感じる者達の存在が大きくなってきました。その中心人物はビルマ国軍最高司令官のネ・ウィンでした。

ネ・ウィンは以前からコラムをお読みいただいている皆さんにはお馴染みの人物ですが、かつてビルマ独立を希求してアウン・サンとともにBIAを組織、日本の南機関とともにイギリスと闘った人物です。

彼は1962年3月2日「国家が直面する険悪な情勢を収拾する」ためクーデターを決行、ウ・ヌーや閣僚を保護拘束し、政権を掌握します。そして「革命評議会」を設立してその議長に就き、クーデター後の国家運営は、ほぼ上級将校ばかりで組織された評議会で行うこととなったのです。

因みに、ネ・ウィンはこの時革命評議会議長の他に、首相、大蔵、国防、法務、国家計画の各大臣も兼任し、独裁まで行かなくとも権力の集中に拘ります。その後自らの理想とする政権運営のため、新たな政党「ビルマ社会主義計画党」を設立し総裁に就任し、事実上の「一党独裁政権」を形作っていきます。

ミャンマー人の伝統である「自由で平等な社会」とは大きくかけ離れた「社会主義体制」の確立、ただしこの「社会主義」という考え方は当時のマルクス・レーニン主義のソ連とは違う、この国独特の体制となり、それ故に「ビルマ式社会主義」という言葉が誕生します。
1960年代当時の世界の状況を見てみると、「社会主義」に傾倒することがインテリや権力者のステータスだったのかもしれません。実際ビルマに限らずアフリカ諸国でも、国づくりにおいて「社会主義」を導入する国家が増えたのも事実です。


画像:ビルマ社会主義計画党旗

ネ・ウィンの心中を察するに、連邦制崩壊の危機に直面してみれば、社会主義政権のような強力な政府を作って、一枚岩の国家体制を作る必要に駆られたのだと思います。党・政府・国軍が三位一体となった盤石な政治機構の構築を目指したのでしょう。

しかしその体制は、諸外国との「非同盟・中立」、「孤立・閉鎖主義」を先鋭化することとなり、一般国民と軍や政権の「特権階級」との格差の拡大を生み、余りにも無謀な経済政策によって今まで積み上げてきた成長を台無しにしてしまうことになります。

不審に陥ったビルマ経済~失敗の加速化

国家経済に大きな衝撃と打撃を与えることとなるビルマ式社会主義体制の政策には、3つのポイントがありました。

①主要な鉱工業や金融・運輸・通信などサービス業はすべて国有化し計画経済体制下に置く。
②農地解放を行って自作農を増やし、一方で自由経営を認めず指示した農作物のみ生産する。
③外国資本の投資を禁止、外国の援助も極力制限して他国に依存しない自立経済を目指す。

この3本柱を据えたひとつの理由は、当時ビルマは経済的実権の大部分を中国人(華僑)とインド人(印僑)に握られていたのですが、これをミャンマー人の手に取り戻そうと考えたことだと思います。

この改革案でビルマ経済の成長を図ることを目標にしたものの、残念ながら彼が思い描いたような経済成長には程遠く、国家財政は歳入・歳出ともに縮小傾向を辿りました。また華僑や印僑を排除してできた穴をミャンマー人がすぐ埋められる道理もなく、国家の経済政策ブレーンはもとより、企業経営者、技能労働者、技術者などあらゆる人材不足が表面化しました。
そして極度の孤立主義によって東南アジア地域の発展から取り残され、遂には1987年に「後発発展途上国」、所謂「最貧国」の烙印を国連によって押されることとなってしまったのです。

このようにどの国が支援しても焼け石に水であった状況下において、そのとき日本はどのように行動したのか、傍観したのか、手を差し伸べたのか。
折しも米ソ対立から東西冷戦期という大きな時代の変革の中で、日本もその煽りを受け決断を迫られることになったのです。

(続く)

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