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Relationship ― ミャンマーと日本の『時間軸』を辿る ~ミャンマーとの友好関係の構築・・・ビルマ戦後復興編その4

経済協力協定と工業化4プロジェクト

以前にも本コラムで書きましたが、1955年4月に日本とビルマとの間で「賠償および経済協力協定」が締結され、1965年までに約720億円相当の資機材や役務を日本が提供することとなりました。

この協定によりビルマは日本からの賠償資金、有償資金、無償資金という3つの経済協力のツールを活用し、ビルマ国内の鉱工業発展と国内経済の安定化のために、設備や原材料、部品、そして技術の指導、人材育成などを国内に調達していくことになります。


写真1:ミャンマー国内の縫製工場の作業風景

しかし、国家間の協力だけで全てが上手く行くわけではありません。
特に企業における経営ノウハウや技術の移転、人材育成といった分野においては国家間でのやり取りでは充足することができないという事態に陥ったため、日本政府は賠償資金を活用して日本国内企業4社に対して、「現地製造・組立のための技術協力協定」を結び、ビルマ国内における鉱工業部門の基礎作りと発展のために直接関与することなったのです。
これを「ビルマ工業化4プロジェクト」と称して、このころから長きに亘って協力を行っていきます。

プロジェクトを担った日本企業4社

「ビルマ工業化4プロジェクト」は、まず日本とビルマ双方の政府の話し合いによりどのような鉱工業を発展させるのかを選定し「鉱工業発展計画」を立案。これに基づき、①軽車両製造プロジェクト、②重車両製造プロジェクト、③農業機器製造プロジェクト、④家電機器製造プロジェクトの4つに絞られました。
この計画に則り、家電、農業機器、乾電池、ディーゼルトラック、バス、小型自動車の製造設備とその部品がビルマへ輸出されることになります。


写真2:ミャンマーの街中を走る日野自動車ボンネットトラック

さて、この計画進行のため重要な役割を担った日本企業4社は、乗用車製造を支援した当時「東洋工業株式会社」だった現在のマツダ、商用車製造を支援した「日野自動車」、家電・乾電池製造を支援した当時「松下電器産業株式会社」だった現在のパナソニック、そして、農業機器製造を支援した当時「久保田鉄工」だった現在のクボタです。

この4社は、全ての製品を製造するのではなく、自社の特定のブランド製品を現地で製造するための技術や資材を供給します。そしてこの資金の出納については、以前ご紹介した東京銀行(現三菱東京UFJ銀行)がサポートすることになります。

以前私がミャンマーへ行った時、年代物の日野自動車製ボンネットトラックが走っていたのを覚えています(写真2参照)。当時は何気なく写真に収めていたのですが、色々と文献や資料を追いかけているうちに、このトラックも、工業化4プロジェクトによってミャンマーで生産されたディーゼルトラックなのだと知りました。

かくして日本の4企業とビルマ政府・日本政府の協力によって生産が開始されることとなるのですが、しかしビルマ側の受け入れ体制は決して万全なものではありませんでした。厳しい言い方をすれば、国営企業や元軍需工場(工廠)の寄せ集め集団が「重工業公社」を組織して運営に当たっていた状況だったのです。
そのため、各分野5つずつ建設された製造工場は、始めは勢いもあり製造量の増加に尽力していたものの、年を追うごとに不安定さを増していきます。

軌道に乗らなかったプロジェクトそして現在

結局、ビルマの重工業公社の経営状況は厳しく、製造量も乱高下した結果、安定した工業化へと成長を遂げることが出来なかったというのがこのプロジェクトの残念なポイントです。

何故プロジェクトは軌道に乗らなかったのでしょうか?
当時の政治状況、経済状況、景気動向などあらゆるデータ・資料を元に研究者が調べても、ここは意見が分かれるところです。一つの要因を挙げるとするならば、建設された工場のほとんどがビルマ国軍用地の敷地の中にあったということです。

ウ・ヌー政権下だった当時、1962年に国軍の最高司令官ネ・ウィンがクーデターを起こし政権を奪取、その後は長期に亘る軍事政権へと政治体制が変わる時でもありました。そんな中、日本企業が尽力して作った製造ラインを元に産出された製品は、国民の市場へは出回らず、「軍用品」として転用されてしまったのです。

特にディーゼルトラックなどは兵員輸送車として簡単に転用できたこともあり、国家の繁栄と成長を「経済力」でというよりも「軍事力」でもたらそうという、当時の世相に抗うことは出来なかったのだと思います。

日本はこのプロジェクトに、1962年から1987年までの実に25年間という長期に亘って関与して来ました。


写真3:「クボタ・ミャンマー」の開所式の様子

もちろんビルマ政府の継続的な外貨不足を補うため、部品や原材料の調達に関与し続けなければならない事情があった訳ですが、それだけでは推し量れない、日本とビルマの深い絆が、現在まで続く経済友好関係の命綱になったものだと思います。

4プロジェクトを支援した日本企業のうち、クボタが昨年2月3日ミャンマーに農業機械販売会社「Kubota Myanmar Co., Ltd.」を設立しました。
ミャンマーは農業国であり稲作も盛んな国です。自動車製造に比べ、国民生活に密着した農業に関わる機械の製造販売は、今後も継続して成長できる分野かもしれません。しかし、そのきっかけもすべてこのプロジェクトにあったということです。

(続く)

資料:

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