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Relationship ― ミャンマーと日本の『時間軸』を辿る ~ミャンマーとの友好関係の構築・・・ビルマ戦後復興編その2

日緬関係波高シ

1954年11月5日、ビルマとの「平和条約」そして「経済協力協定」の調印にこぎ着け、ビルマとの戦後賠償交渉に進むこととなった日本ですが、交渉は難航に次ぐ難航でした。その平和条約交渉の妥結に向けた当時の動きをまず見ていきたいと思います。

前回も書きましたが、サンフランシスコ講和会議にビルマは招請を受けたにもかかわらず会議に参加しませんでした。理由は、琉球・小笠原に対する米国単独による信託統治や外国軍隊の日本残留などいろいろありましたが、一番の懸念事項は「賠償条項への不満」だったと考えられます。
しかし、ビルマとの講和は、国の経済発展にとって必要不可欠と考えた日本政府は、何とか交渉のチャンネルを開こうと在外事務所の開設や総領事館の開設を行います。

一方でビルマ側の腰は重かったと言われています。
ビルマの戦後の対外姿勢は、大陸で勢いづく中国共産党や中華人民共和国に傾倒してゆく兆候が見られ、其れゆえに日本が保守政権であったことに不満を示していました。
そのような中、「賠償条項」に対する不満が露わになります。

1953年の交渉時において、当時のビルマの内務大臣は日本が提示する「役務賠償」Iにプラスして「サムシングを考慮した案」を提示してほしいと表明します。
この曖昧な「サムシング」という表現は当時の日本政府を混乱させます。金銭や役務以外においてどのような形で賠償の意思を示せるのか?ビルマ側に尋ねるも具体的な提示はありません。

「曖昧さ」まで日本流にする必要はないのですが、国交正常化を望んだのは日本なのだから、日本が「サムシング」を具体的に示すべきというビルマ政府の姿勢は一貫していたようです。
結果、日本政府はこの「サムシング」を「役務+生産物(主として資本財II)」としてビルマ政府に提示、大筋で交渉開始に同意することとなり、賠償のほかに経済協力を併せて協定に加えることも提示し同意を得ます。

交渉妥結が与えた影響

曖昧なビルマ政府の「サムシング」を克服した日本政府は、1954年8月当時ウ・ヌー政権の工業相兼外相代理であったウ・チョウ・ニエンの来日に合わせて最終の詰め作業を行います。
なかなか一筋縄ではいかず、賠償総額をめぐって交渉決裂の危機に見舞われながらも、10年で2億ドルの賠償金、経済協力として5000万ドルを支払うことで合意することになりました。


写真2:日本政府側外務大臣
岡崎勝男

写真1:平和条約締結時の
ビルマ外務大臣
ウ・チョウ・ニエン

これにはビルマ政府の退っ引きならない事情もあったと言われ、ウ・ヌー政権が掲げた「ピードーター計画~福祉国家計画」の実現のため、早く資金を手に入れるべくビルマ政府が総額で譲歩したのではと考えられています。

かくして1954年11月5日、前記の賠償額にプラスしてビルマの賠償事項の再検討を可能にする「再検討条項」という何ともお得なオプションまで盛り込まれた平和条約・経済協力協定が調印されました。

この出来事は日本にとって初めての賠償交渉妥結となりました。吉田茂の回想録『回想十年』によると、「それまで鎖されていた賠償の窓が、このビルマ賠償の解決よって開かれた」と述べており、日本が戦後アジア世界へ復帰する極めて重要な一歩であったことが窺い知れます。

勿論、戦後処理を進めると同時に経済復興を図りたい日本と、脱植民地化を推進するビルマ、双方の国家の思惑が一致したことは言うまでもありません。
また吉田茂はビルマ交渉について「他の求償国への刺激になったのみならず、その金額ならびに方式が、先例または雛形のようなものになって、賠償問題の進展に貢献」したことや、「総額が他の求償国に対する一つの尺度となる」とも述べています。

国交樹立と南機関のレガシー

一般的に、国交樹立は関係国の批准があって初めて成立するものなのですが、日本とビルマは平和条約並びに経済協力協定を前記の時期に調印したのみで、その批准を待たず、1954年12月1日互いに大使館を設置し、国交が樹立します(因みに批准書の交換は1955年4月16日でした)。

このように、今までのこう着状態が一気に緩和したのは影の立役者がいたからだともされています。
その立役者とは、かつてBIAの大尉として従軍した奥田重元(おくだしげもと)氏です。
奥田大尉は軍属としてタイ王国バンコクに駐在、BIA設立と同時に大尉となり、BIA本部にて作戦補佐等を行っていました。
戦後ビルマ政府顧問として活動していましたが、ビルマとの交渉が難航していた日本政府は、事態打開のためかつての南機関員やBIA部隊員を交渉役として探しており、その時に奥田大尉に白羽の矢が立ったのです。

かくして奥田大尉は「ビルマ賠償使節団団長補佐官」として交渉妥結に向けかつてのビルマ人の仲間達に語りかける日々に没頭します。 しかしこの南機関・BIAの陰の活躍は正史の記載にはっきりとは出てきません。奥田大尉は公的な使節団として活動していたので記載があるのですが、その他一体どれくらいの人々が関わっていたかは見当がつかないのです。

しかしながら記録はなくとも、あの時に築いた絆の力によって遠くなっていたビルマとの関係が再び引き寄せられたことは紛れもない事実なのです。

注記:
  1. 日本はサンフランシスコ条約に基づき、金銭ではなく「役務および生産物」を中心として賠償を行うことが認められ、日本は具体的に発電所建設やダム建設、港湾建設、上水道建設、農業センター建設、船舶供与、トラック供与などを、技術を持った日本人が中心になって建設などを支援や、生塵物を無償で経済協力することなどをした。
  2. 資本財は原材料・仕掛品などの流動資本財と、機械・工場などの固定資本財とがある。流動資本財は、一回の商品生産で使用してしまう単用資本財であるのに対して、固定資本財は、ある期間の反復的使用に耐えうる耐久資本財である。
資料:

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