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Relationship ― ミャンマーと日本の『時間軸』を辿る ~ミャンマーとの友好関係の構築…ビルマ再独立編

日本軍政が去った後で


写真1:武装解除、クローサー少将へ軍刀を手渡す
竹原三郎中将

今年も72回目の「あの日」が巡ってきます。
1945年8月15日、大日本帝国政府は米・英・支(中華民国)・蘇(ソ連)の発したポツダム宣言を受諾、日本国民は国内に流れるラジオから、昭和天皇自らが御読みになられた「終戦の詔」によって、日本の敗戦と終戦を知ることとなります。

外地で戦闘していた日本軍は降伏・武装解除され、ある者は祖国に帰還し、またある者は連合軍の捕虜となり、収容所へと連行されていきました。

当時のビルマにおいてもイギリス軍による武装解除や捕虜収容所への移送が行われますが、これについては改めて別の機会に触れることにし、ここでは戦争終結後のビルマ(ミャンマー)の様子を再び紐解いていこうと思います。

再びイギリス統治との戦い

4月の回で記したとおり、アウン・サン将軍以下ビルマ国軍は対日反攻戦に備えてイギリス軍と手を組んだわけですから、イギリスは当然のごとく「力の空白地」となったビルマの統治に再び乗り出します。

しかしながら当時のイギリスの実情は散々たるものでした。
ドイツ第三帝国にほぼほぼ首都ロンドン陥落まで追い込まれ国力は疲弊。かつて「大英帝国」と称された時代に版図を広げたこの国家は、委託統治の限界や分離独立の時代の流れに晒されていきます。アウン・サンらはこの機を逃すまいとビルマの「再独立」を目指し、武力ではなく「政治交渉」によって勝ち取ろうと奔走します。

1945年8月以降になるとアウン・サンは軍籍を離れ、抗日勢力の基礎ともなった反ファシスト人民自由連盟(AFPFL、略称パサパラ)の総裁となって政治活動に専念。当時の英国首相アトリーとビルマ国家再独立に向けた粘り強い交渉を行っていくこととなります。
1946年1月、この交渉が実を結び、ビルマ自治政府協定、所謂「アウン・サン=アトリー協定」が調印され、これによりビルマは本格的な独立国家としての歩みを始めていきます。

鈴木大佐のその後とアウン・サンとの再会

さて、かつてアウン・サンらとビルマ独立を目指した南機関と鈴木大佐ですが、機関長更迭、解散からどうしていたのか、特に鈴木大佐について追ってみることにします。

1942年ラングーンを離れた鈴木大佐は、一旦、留守近衛師団司令部付となり同年8月帝国陸軍第7師団(北海道)参謀長となって北方へ赴任します。
その後陸軍少将に昇任し、1944年3月から1945年2月まで帝国陸軍第27軍(千島列島)参謀長に配置換え、そして帝国陸軍第5船舶輸送司令官兼札幌地区鉄道司令官となって北海道で終戦を迎えます。帝国陸軍解体までの間は予備役として軍籍を置いていました。

終戦後、戦争犯罪人の特定とその処断を急いでいた連合軍は、数々の戦地において指揮指導していた日本の軍人や軍属の者を次々と逮捕・連行し、所謂「A級・B級・C級 戦争犯罪人」とカテゴライズして裁判を行っていきます。

ビルマ戦線においてはイギリスが主体となって調査・追跡・逮捕が行われ、鈴木大佐も「BC級戦犯」としてビルマに置かれた戦争犯罪人法廷に連行されることとなりました。
『鈴木敬司ビルマに連行』の一報は、当時英領ビルマ政府行政参事会議長であったアウン・サンに届きます。

アウン・サンの行動は迅速でした。
直ちにイギリス政府に対し鈴木大佐逮捕への猛抗議と即時釈放を要求。これはアウン・サンだけではなく、かつてビルマ独立義勇軍として日本軍と苦楽を共にしたビルマ軍人たちも、鈴木大佐釈放を求めて一致団結していきます。

国家独立のきっかけと現在の自分を築いてくれた鈴木大佐へのアウン・サンなりの最大の恩返しであり、また日本という国に対する最大の敬意であったかもしれません。結果、この猛抗議が実を結び、鈴木大佐は訴追を免除され釈放となったのです。
久しぶりの再会となった鈴木大佐とアウン・サン、友情と対立を経て再び新たな関係が始まるかと思われるそんな矢先、悲劇は巡ってきます。

アウン・サン暗殺そして「建国の父」へ


写真2:パンロン宣言へのサインを行うアウン・サン

アウン・サンは、ビルマの国家完全独立にむけてアウン・サン=アトリー協定に調印。その後、1947年2月27日には国内各派のリーダー(少数民族など)達と、独立のための民族連帯と協力を確認する「パンロン合意」を発表し調印に持ち込みますが、国内は混乱続きのままでした。

4月には制憲議会選挙でAFPLFは202ある議席のうち196議席を獲得し圧勝したものの、完全独立に向けイギリスとの厳しい交渉や幾度にもわたる会議によって、国内対立の解消と国家統一への道を模索し続けることになります。

そのような日々の中、悲劇が突然訪れました。
同年7月19日、国家運営にかかわる会議を開催中、6人の閣僚とともにアウン・サンは暗殺されてしまいます。享年32歳の若さでした。
暗殺犯は政敵であり前首相のウー・ソオの一味で、ウー・ソオが自分の野心のために暗殺したとされている一方で、アウン・サン暗殺の黒幕はイギリスでありウー・ソオは犯人に仕立て上げられただけなのではないかという話もあります。しかし真相は未だ闇の中となっています。

アウン・サンは生前、独立計画を準備中の1940年にまとめた『自由ビルマ計画』において、このような記述をしています。


写真3:ビルマ独立記念式典

一つの国民、一つの国家、一つの党、一人の指導者しかあり得ず、議会での反対勢力や個人主義は許容しがたい(中略)、独立後のビルマは独特の国家形態になるだろう」と。

これはかなり極端な表現をしていますが、つまり135種からなる民族で構成されるビルマはそれぞれが主張や対立するのではなく「ビルマ」という一つの国家のもと「ビルマ国民」として民族融合し、「国民統合」へと進むべきであると解釈できます。

大いなる理想を持って国家分断を画策する勢力と闘い、独立へ奔走したアウン・サンの遺志は、1948年1月4日、イギリスからの完全独立という形になって結実します。そして、ビルマ国民はアウン・サンのこれまでの功績を称え、彼を「建国の父」と呼ぶようになったのです。

(続く)

資料:

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