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Relationship ― ミャンマーと日本の『時間軸』を辿る ~ミャンマーとの友好関係の構築…昭和時代その2~

当時のアジア情勢を整理

前回に引き続きアウン・サンと日本との関係について書いていきたいと思いますが、ちょっとその前に、当時のアジア情勢について少し整理しておこうと思います。
アジア地域において独立国家として成立していたのは、諸説ありますが日本(当時大日本帝国)タイ王国のみでした。

中国は国民党と共産党との内戦状態に日本と交戦中の状況、朝鮮半島並びに台湾は日本統治下に置かれており、フィリピンはアメリカ、インドネシアはオランダ、ヴェトナム等は当時「仏領インドシナ」としてフランスの統治下に置かれていました。


写真1:バー・モウ

ミャンマーは当時「英領ビルマ」ですが、前回述べた「英緬戦争」によりイギリスの占領下におかれたビルマは、その時先に統治下に置かれていた英領インドの「属州」という位置づけでした。つまり「インドの一部」だったわけです。

その後、1937年にインドの属州を解かれ、ビルマ人「バー・モウ」を首班とする政権が成立、イギリス連邦内の「自治領」としてその統治下に置かれることとなります。(首班となったバー・モウさんもよく覚えておいてください。後々登場しますので)

逃亡先の厦門にて

さて、ビルマ研究の内示を受けた鈴木陸軍大佐は、政府機関である興亜院や民間の満鉄調査部、上海に潜入していた軍の特務機関などとの協力を得て情報収集を開始し、読売新聞特派員「南益世」として現地に入り、同じころアウン・サンはイギリスからの「お尋ね者」となりビルマを出国、中国の厦門に潜伏をしていました。

中国においてアウン・サンはとにかく独立運動に協力してくれるならと国民党派にも共産党派にもアプローチをかけるのですが全くの門前払い、出国当初の「毛沢東が協力してくれるかもしれない」というタキン党幹部の淡い期待も露と消えてしまうのです。

当時アウン・サンは仲間のラー・ミャインと共に行動をしていました。仲間を集めてくるといった手前全くの成果なしで本国に帰れば自分たちの居場所はない・・・落胆の日々を悶々と過ごす二人。

そんな矢先、彼らはある男たちに身柄を確保されることになります。上海に潜伏していた日本軍の特務機関員達です。彼らは鈴木陸軍大佐からの情報と上海での活動により構築したネットワークによって潜伏していたアウン・サン達を発見し身柄を確保することに成功します。

特務機関に身柄を確保されたアウン・サンとラー・ミャインはそこで思わぬ誘いを受けます。「日本と協力しビルマを独立させないか?」と。

彼らは悩みます。当初は毛沢東(中国共産党)が協力してくれるといわれていた手前、「はいそうですね」と日本に便乗することは相当危険な賭けになることは予想できました。しかし躊躇している時間もありませんでしたし、「とにかく我々について来い」という日本の強引さも手伝って、彼らは日本との協力を模索してみることとなります。

アウン・サンら期せずして日本の地を踏む

日本との連携を模索するアウン・サン達は厦門を脱出することになります。
そして決まっていたかのような段取りにより、アウン・サンには「面田紋二」、ラー・ミャインには「糸田貞一」という日本人名を与え、更にその容姿から「日比混血児」(日本とフィリピンのハーフ)に偽装して1940年11月、一路日本の「羽田飛行場」へと向かいます。

羽田には一足先に戻っていた鈴木大佐がおりましたが、鈴木大佐は考えていました、「彼らを迎えた後何処に滞在させるのか?」と。

なぜ鈴木大佐はそのようなことを考えていたのか?
様々な資料を調べてみたところ、鈴木大佐は下命された時には、既に「ビルマ作戦の計画はあるものだ」と思っていたのですが、その時帝国陸軍参謀本部はビルマ侵攻作戦や具体的なビルマ独立運動扇動に関する行動計画は全く形になっていなかった、つまり日本側もほぼほぼ「ノープラン」だったのです。ですから、鈴木大佐は彼らの滞在先について困ってしまったのです。


写真2:左:ラー・ミャイン 右:アウン・サン

しかし、鈴木大佐は情に厚く職務に忠実な軍人でした。彼らの滞在予算も参謀本部から支援を得られない状況下で、自らの資金(ポケットマネー)を使って彼らをサポートしていきます。

取り急ぎ彼らを住まわせることに一番理解を得られるのは「実家」しかないと考え、鈴木大佐はアウン・サン、ラー・ミャインを連れ、現在の静岡県浜松市に向かいます。


写真3:浜松滞在中のアウン・サン達
(右側二人)

しばらく浜松市にある実家に匿ったのですが、容姿が日本人とあまりにも違う二人が近所を歩いていると直ぐに噂になってしまい、その後浜松湖湖畔(現在の舘山寺温泉)の旅館「小松屋」や浜名湖の弁天島などの宿舎、その後東京の高円寺にあった下宿などを転々とすることになりました。

身の拠り所が定まらない不満と異国の地での生活の不安を抱えたアウン・サン達、参謀本部の煮え切らない様子に忸怩たる思いを募らせる鈴木大佐。

それでも来るべきビルマ侵攻作戦と国家独立計画の青写真について議論を戦わせる日々がお互いの信頼関係をより強いものへと進化させつつありました。

(続く)

写真:
  • 写真1:タイトル・撮影者不明 ≪バー・モウ≫
  • 写真2:タイトル・撮影者不明 ≪左:ラー・ミャイン 右:アウン・サン≫ ※浜松で撮影?
  • 写真3:タイトル・撮影者不明 ≪浜松滞在中のアウン・サン達(右側二人)≫ ※鈴木大佐の自宅?左に大佐の娘、中央に奥様?

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