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Relationship ― ミャンマーと日本の『時間軸』を辿る ~ミャンマーとの友好関係の構築…昭和時代その1~

「親日国」ミャンマー

ミャンマーは一般的な観点から日本の友好国、所謂「親日国」と称されます。しかしながら、何故「親日国」になったのでしょうか?

更に東南アジア諸国や太平洋の島嶼部の国々でも日本の友好国がたくさん存在しています。
「歴史観」には人其々の思いが盛り込まれているので、私の歴史観を強制することは致しませんが、二度の世界大戦に友好国となった所以があると考えています。
特に第二次世界大戦・大東亜戦争期については、ミャンマーとの繋がりが構築された重要な位置付けがあると思っています。

今回はミャンマーがどのような経緯を辿って日本と出会い、そして関係を築いていったのか、その始まりについて書きたいと思います。

当時のミャンマーとある英雄の登場

1824年、植民地建設を推し進め、世界一の海洋大国になろうとしていたイギリスがインド(当時ムガール帝国)を征服し、いよいよミャンマー(当時ビルマ王朝)に迫り、第一次英緬戦争が勃発します。

近代兵器を駆使した英国軍はビルマ王朝軍を駆逐し、1885年の第三次英緬戦争で全ビルマが平定されたことによって戦争は終結します。

その後、「英領ビルマ」となったこの国はイギリス統治下に入り、少数民族優遇による大民族(ビルマ族)支配というイギリス独自の植民地政策により、ビルマ族の生活は王朝時代から一変することになります。

このような状況からビルマ族の多くの心の中に抱き始めたものは、イギリス支配からの脱却、つまり「国家独立」という大願です。

話はかなり進んで1930年代末、国家独立を嘱望するビルマの民族主義者たちは、「政治的独立」という目標は、ストライキやスローガンなどで達成することは不可能であり、外国からの武器援助を得て武力闘争しなければ達成できないと感じ始めており、特に当時反英国系政党であるタキン党の1939年開催の党大会において、対英非協力と武装蜂起が決議され、党員たちはインドの国民会議派(反英国系)や中国の国民党と共産党、或いは諸外国にも援助を求めていました。

アウン・サンこのタキン党において諸外国や政党の幹部と折衝に当たっていたのが、アウン・サンという若き青年でした。この青年は皆さんご承知の通り、アウン・サン・スー・チー外相の父親です。

1940年になるとイギリス側から国家を乱す集団としてタキン党員たちの逮捕が開始され、党の上級幹部たちが相次いで投獄される中、その年の8月、アウン・サンは同志たち数人と逃亡、支援を求め、厦門(アモイ)へ密出国します。

何だか非常に切迫している状況ですが、この時の情勢について調べてみたところ、先ほど支援要請先を書きましたがこれらは確定していたわけではなく、ほぼアウン・サン達タキン党は「ノープラン」の状況で追っ手を逃れ、厦門に入ったと考えられます。
しかしこの「ノープラン」が、後の重大な巡り会いに繋がっていきます。

日本の状況と運命を背負った軍人

さて、一方の日本(当時大日本帝国)ですが、すでに始まっていた中国国民党蒋介石政権との戦争所謂日中戦争が一進一退の状況であり、彼らの根拠地である重慶に中々辿りつかない状況となっていました。

蒋介石は対日徹底抗戦を掲げ諸外国(英・米・仏・ソ)の軍事物資援助を頼りにしており所謂「援蒋ルート」を開通させたのが1939年でした。

因みに「援蒋ルート」はラングーン(現ヤンゴン)が起点になっており、マンダレー、ラシオを経由し、雲南の山岳地帯を越えて昆明に向かうもので、現在も中緬の流通経路として重要な役割を果たしています。

日本としてはこの戦争の早期解決が益々困難化しており、このルートを遮断しない限り長期泥沼化は避けられなかったわけです。加えて諸外国、特にアメリカからの石油禁輸にダメージを受けていた状況で、資源獲得のため南方に活路を求めるべく「南進論」を国策として推し進めるしか道は残されていませんでした。

鈴木敬司陸軍大佐そこで、大日本帝国陸軍はビルマルートの調査と日本軍に協力してくれるビルマ民族主義運動者の情報収集のため、当時陸軍参謀本部船舶課長であった鈴木敬司陸軍大佐を派遣します。

彼は日緬協会書記兼讀賣新聞特派員「南益世」と称してラングーンに潜入、援蒋ルートの調査や資源調査、そして反英国系組織のタキン党の調査や潜伏党員への接触を図ります。

そして、鈴木大佐はタキン党員から外国援助獲得を目的として厦門に潜入しているアウン・サンらの存在を知ることになります。

南方に資源確保の活路を求めた大日本帝国陸軍、英国の植民地支配からの解放と独立した近代国家の建設を願ったアウン・サン達、それぞれの思惑は違えども、歴史的対面となるまでそこから半年と掛かりませんでした。

(続く)

写真:
Aung San in Burma National Army uniform (アウン・サン、撮影者不明)
Keiji Suzuki (鈴木敬司陸軍大佐、撮影者不明)

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