World Map Europe

Our World through Music~
甘い音と巡る世界の響き~Vol.22

ピアニストの中のピアニスト

今回は、彼以上にピアニスティックな人はいないと言えるであろうフレデリック・ショパンについてお伝えします。ヴァイオリニストから見たピアニストとは。

ショパンは、1809年(1810年という説もあり)ポーランド生まれ。フランス人の父、ポーランド人の母のもと、幼い頃から音楽的才能を発揮します。趣味で歌やフルート、ヴァイオリンの音色が流れる家庭は、彼の詩的な情緒を豊かに育くみました。

代表作の一つ「英雄ポロネーズ」をお聴きください。

ショパンは女性的な音楽家としばしば言われますが、この曲を聴くとその印象は大きく変わるでしょう。演奏しているラン・ランは現代を代表するピアニストですが、彼のようなヴィルトゥオーゾ(「音楽の名手」、「格別な技巧や能力をもつ超一流の演奏家」を意味するイタリア語)をして初めて演奏可能になる強靭さを感じます。

6歳でピアノを始めたショパン。その演奏や作曲技法は当初から極めて独創的で自然に優れていたものであったそうです。よって教師たちは教科書的に指導することはなかったとか。

同じく代表作から「スケルツォ第2番」をお聴き下さい。演奏はマルタ・アルゲリッチ。日本と縁が深く、大分県別府市でアルゲリッチ音楽祭を長年開いています。

1830年。ワルシャワ音楽院を卒業しベルリンやウィーンで成功を収めたのちショパンはパリへと向かいました。オーストリアとポーランド間の政治関係が悪化していたことでウィーンでの活動が難しかったためです。

では、ここでこの一曲をお聴きください。ショパンのエチュードより「革命」。
演奏は、今や日本を代表するピアニスト辻井伸行さんです。ちなみに、革命というタイトルは友人だったリストが名付けました。

エチュードとは練習曲のことですが、ショパンやドビュッシー、シューマンといったピアニストたちは演奏会でも弾ける練習曲集を書き残しました。ヴァイオリンではパガニーニが24のカプリスを残しています。実はこれもヴァイオリニストにとってはエチュードでもあり、他のヴァイオリニストもカプリスを残しています。カプリスとは奇想曲のことで、自由な形式で書いてあることが多いのですが、ピアノにおける演奏会向けエチュード集がこれにあたると思います。

さて、ショパンは知られているだけでその生涯に3人の恋人がいました。
1人目の恋人コンスタンティアに失恋したときに書いたピアノ協奏曲第1番、2人目の恋人マリアに失恋したときに書いた「別れの曲」。順番にお聴きください。

ピアノ協奏曲第1番第1楽章

ピアノ協奏曲第1番第2、3楽章

「別れの曲」

そして、このマリアに失恋したときに出会ったのが、運命の恋人ジョルジュ・サンドでした。6歳年上の男装の麗人で作家。上品さとセンスの良さでサロンの人気者となったショパンと、若いときからスキャンダラスなサンド。リストが紹介して出会った2人、最初ショパンはサンドへの印象は良くなかったようですが、徐々に惹かれていきます。

サンドは、既に一男一女の母でしたが、数々の恋愛遍歴を持ち浮名を流していました。ですが、ショパンのために経済的にも精神的にもひたすら支え、尽くします。結核の病が出ていたにも関わらずショパンはこのころにいくつもの大作を残しました。それはひとえにサンドの献身的な愛ゆえではないかと思います。先にご紹介した「英雄ポロネーズ」や「スケルツォ2番」は彼女と同棲していたころの作品です。

2人の愛は、サンドの子どもとショパンの関係悪化により終わりを告げました。9年にも及ぶ親子との生活。恋人の子どもとも真摯に向き合ったショパン、芸術家に育てられた子ども二人と母としてのサンド。芸術と家庭の両立はさぞかし困難だっただろうと想像しますが、同時に彼らの人間の器の大きさを感じさせられます。サンドと別れて3年、なんとか演奏活動を続けたものの、病状悪化でショパンはパリの地に客死しました。享年39歳でした。

ショパンは、パリに埋葬されました。その際にはポーランドの土をかけられ、死後の心臓はポーランドへ移されました。現在、ワルシャワ空港にはショパンの名前がついています。それは、彼がパリの地でずっとポーランドの音楽を奏で続けていたからです。
これは私の個人的な思いですが、ショパンの音楽はワルツなどでもポーランド独特の韻のようなものを感じます。そしてそれはピアノでないと表せない響き。私はリストやラフマニノフのピアノ作品をヴァイオリンで演奏することがありますが、ショパンは弾きたいと思いません。ピアノ以外であのショパンらしさを引き出すことはかなわないと思っているからです。

最後に、彼の最晩年の傑作、そして私がショパンの中で最も好きな曲をお聴き下さい。ヴェニスの街をイメージした「舟歌」。演奏は日本人として最年少でショパンコンクールに入賞した横山幸雄さんです。

写真:
  • Old city center view in Krakow
動画:

  • 橋本啓子 より:

    田中様。私は3才から小6までヴァイオリンを習っておりました。祖父が鈴木メソッドでヴァイオリンを教えていたからです。私はとても不器用で譜面がわからず、ずっと耳で音を取っていたので一曲覚えるのにとてつもなく時間がかかり、上手くもならなかったので、やめてしまいました。でも、音楽を聴くのは好きです。今は全く関係のない旅行の仕事をしていますが、このコロナ禍で仕事が全部吹っ飛び、家にいる機会が多くなりYou tubeの動画から辻井伸行さんのファンになりました。
    祖父はとっくに鬼籍に入ってしまい、どのようにしてヴァイオリンと出会ったのかもう聞くことができないのが残念です。祖父の若い頃は多分大正か昭和の初期です。無名のヴァイオリニストだったことくらいしか知りませんが、生前お酒を飲むと現在横浜の山下埠頭に係留されている氷川丸で弾いていて何度もアメリカへ行った話をしていたものですが。当時若かった私はろくに話しもしませんでした、アル中でいつのお酒の匂いをプンプンさせていて苦手だったのです。今となってはもっと話を聞いておくべきだったと後悔しています。

コメントはこちらから

メールアドレスが公開されることはありません。

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)