新潟県越後湯沢
新潟県越後湯沢といえば関東圏のスキーヤーが挙って向かう地域ではありますが、この雪深い場所にもミャンマーと日本の歴史を伝える場所があります。
写真1:真言宗薬照寺
湯沢に近い六日町君沢(現在の南魚沼市君沢)にある真言宗「薬照寺」、北陸地方にあるこの寺院はかつて日本との協力の上で独立を行いビルマ国初代内閣総理大臣となったバー・モウ首相を一時匿ったことで知られている場所です。
現在も、バー・モウ首相が使っていた部屋や腰掛けた椅子(その椅子にはバー・モウ首相の人形が飾られている)などがそのまま残されています。
しかしながら、バー・モウ首相は何故亜熱帯の国から雪深いこの地まで来ることとなったのでしょうか?
決死の逃亡劇の始まり
ビルマ国のバー・モウ首相は本コラムに何度も出てきており、今までお読みいただいている方には馴染みがあるかもしれませんが、ビルマ独立時にアウン・サンらに推挙され初代首相となった人物です。
日本軍の敗走に伴いビルマにイギリス再統治の事態が迫ったとき、日本側に立っていたバー・モウは連合軍に拘束・極刑にされるのではという危険に見舞われました。その事態を避けるにはいったんビルマを離れるしか道がないと考え、日本への亡命を決意。日本到着までは当時の在ビルマ日本大使館の北沢直吉参事官とともに行動します。
1945年8月24日、バー・モウは日本軍の軍用機を何度も乗り継いで、東京の陸軍立川飛行場に到着し、その後東京に二泊した後に8月26日陸路で新潟県六日町(現南魚沼市)に到着します。連合軍(アメリカ軍)の先遣隊が厚木飛行場に到着するわずか二日前のことでもありました。
東京から新潟県六日町までは外務省や大東亜省といった省庁の担当者がフォローをしていたのですが、新潟県でのサポートは、隠れ家とした薬照寺の第77世住職「土田覚常」と、後に石打村村長となる「今泉隆平」、そして「今成拓三」という人物に生活の一切を支えてもらうこととなります。
偶然の出会いと命を懸けた支援
大東亜戦争当時の学童疎開は、空襲が少ないと思われた東北や北陸地方へと向かっていったわけですが、やはり関東圏にいると連合軍による逮捕の機会が増えてしまうかもしれないと考えたからなのでしょうか、バー・モウ首相も同様に北陸へと向かっています。
そして、ここで急な登場となる今成拓三氏ですが、彼が中心となってバー・モウ首相を匿います。
この今成氏は六日町に二十三代続く旧家の戸主であり、食品工場を経営しながら戦時中「大日本翼賛壮年団新潟県副団長」を務めていた人物。バー・モウ首相の潜伏先を探すのに困り果てていた大東亜省の担当者が偶然彼の名を聞き及び、協力を懇願したところ、快く引き受けてくれたそうです。
写真2:日本統治時代のバー・モウ
しかしながら今成氏の支援は並大抵の苦労ではない、命を懸けたものとなっていきます。バー・モウの存在を秘密として彼を守り通すため、今成氏は親戚など二十数名による支援グループ「七生隊(しちしょうたい)」を結成し、血判まで押して協力を誓ったそうです。日本がまだ敗戦の虚脱から抜けきれず、すべての人々が食べることに相当な苦労をしていたそんな時期に、バー・モウ首相の食べ物を確保しようと方々からかき集め、密かに薬照寺に届けていました。
これはかつて七生隊に属していた関係者の話として伝わっていることですが、今成氏はこう言っていたそうです。
「皆の者は、もしバー・モウ博士の隠匿が占領軍に見つかったら、捕まって殺される前に死ね」と。
そう言い含められたうえでそれぞれ手渡された青酸カリを自決用に持ち歩いていたそうです。
今成氏をはじめサポートした人々は、独立運動の志士たるバー・モウに大義ありと信念を抱いて支援することに、生きがいと大きな責任を感じていたのかもしれません。
発覚とその後のバー・モウ
バー・モウは1945年8月27日から翌年1月16日まで薬照寺で潜伏生活をしてましたが、ついには居場所が発覚してGHQイギリス代表部へと出頭することとなり、今成氏他関係した者達も次々と身柄を拘束・収監されることとなりました。
しかし、同年7月バー・モウは「釈放」となり、これに合わせて順次日本人関係者も釈放となっていきます(元々逮捕容疑もなく、収監すらも意味不明だったので当たり前といえば当たり前ですが)。翌月には独立を勝ち取ったビルマへと帰国するも、なんと「アウン・サン暗殺計画」に加担したのではとの疑いで一時拘束されるという事態もありましたが嫌疑が晴れ釈放、再びビルマ政治の世界へと復帰していくこととなります。
さらに、ネ・ウィン社会主義政権下で再び拘禁されることもありましたが、その期間に回顧録「ビルマの夜明け」を完成させます(私のコラムの重要な資料となっているものです)。
最後は1977年ラングーンの自宅にて亡くなるわけですが、日本に翻弄され、助けられ、最大の賛辞をも送ってくれたバー・モウの亡命劇は、日本とミャンマーの交流史におけるあまり語られない1ページともなっています。
(続く)