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Relationship ― ミャンマーと日本の『時間軸』を辿る ~ミャンマーとの友好関係の構築…昭和時代その8

大東亜戦争の終焉

前回は南機関の解散とバー・モウ政権誕生・ビルマ独立宣言のところまで書きました。
傀儡政権とはいえ国家独立という目標に到達したアウン・サン達でしたが、時の巡りはそんなお祝いムードを払拭してしまうほどの大きなうねりを連れてきます。


写真1:ビルマ戦線における日本兵

南方戦線で苦境に立たされた日本軍は援蔣ルート破壊に向けた活路を見出そうとインド北東部インパール攻略を画策します、所謂「インパール作戦」の開始です。
内容については割愛しますが、作戦の結果は日本側総兵力92000人に対して戦死者26000人、戦傷者30000人という世紀の大敗北を喫し、大きなダメージを背負った日本軍は各地での敗戦や撤退も相まって、支配領域を縮小することとなります。

海戦においてもレイテ海戦、ミッドウェー海戦などで敗北、日清戦争・日露戦争においてアジア最強と謳われた帝国海軍は艦船も兵員もその多くを失います。

このとき、日本軍の不利、そして日本の敗戦は近いと察知し、真の国家独立を行うのは今だと考えた者がいます、それがアウン・サンです。アウン・サンはインパール作戦の失敗や各戦地での戦況不利の情報が日に日に増加することを察知し、日本に頼る国家独立は頭打ちであると考え、かつての敵、宗主国であったイギリスに抗日戦闘活動と国家独立の支援を要請します。

イギリスの当時の政権は労働党のアトリ―でしたが、アジア戦線で日本に苦戦を強いられてきたこともあり、これは「渡りに船」だと考えたのか、あっさりと支援を約束することになります。
こうして、日本とビルマの友好状態は一転して敵対関係、反日抵抗戦へと進んでいきます。

余談にはなりますが、日本とビルマあるいはイギリスとビルマの関係性を象徴するものが写真に記録されています。


写真3:反日攻勢時の
アウン・サン

写真2:日本軍政期の
アウン・サン

左は日本とともに行動していた時のアウン・サンで右はイギリスと手を結んだ時のアウン・サンです。
着ている軍服が日本型か英国型かよく分かるデザインだと思います。この違いはビルマ独立後に造幣された紙幣や戦後作られた銅像などにも表れています。

余談を挟みましたが、ビルマにおける日本の影響力も次第に弱体化し、遂にはビルマ撤退そして1945年8月15日の敗戦・武装解除へと事は進んでいくことになります。

日本人とビルマの人々

これまで政治や軍部の上層部分の日本とミャンマーの関係性について書くことが多かったわけですが、一方で市井における日本とミャンマーの関係性はどうだったのか?

ビルマ侵攻から占領、軍政の始まりによって多くの日本人や日本軍兵士がビルマに駐在することとなりましたが、インパール作戦の失敗、連合軍の反抗によってその生活範囲の縮小や生命の危機に瀕することが多くなっていきます。
殊に日本軍兵士は最前線において連合軍との激戦の末、敗走を余儀なくされることが多くなり、戦地に所在する集落への連合軍による残党狩り(敗走兵の掃討)も頻繁に行われるようになっていきます。

以前バー・モウの著書の一節をご紹介いたしましたが、日本軍とアウン・サンらがかつて人々に熱狂をもって迎えられたということがありました。軍や政治のシビアな関係性とは対照的に、一般のビルマの人々とは非常にマイルドな好意をもって関係性を構築していたと考えられます。

もちろん腹に据えかねることは互いにあったとは思いますが、良い関係を築いていたということが分かるエピソードが戦争の終焉時にあります。

敗走する日本兵は、戦地にある集落に逃げ込み、部隊が散り散りになって何とか司令部にたどり着くか、或いは自害するかという選択に迫られ、その状況をビルマの人々(ビルマ族もそうですが、戦地が少数民族居住地域が多いので少数民族の人々も)も目の当たりにしていきます。
ある村において村内に逃げ込んだ日本兵を追いイギリス軍が村内の住宅を捜索していたとき、村人は日本兵を匿うため、一つの秘策を行ったといいます。


写真4:敗戦後武装解除を受ける日本兵

当時の日本兵はほぼほぼ「坊主頭」でした。これが功を奏してイギリス軍から逃れることができたのです。 ミャンマーは初回にも書きましたが「仏教国」です、そして男子・男性は人生の中で何度も「出家」して寺院で修業を行います。つまり、日本兵を「出家僧」に仕立て上げイギリス軍の追及を逃れたということです。

もちろんイギリス軍による詰問がありましたが、村人が「この男は昔から病気で声が出せない。だから僧になって仏に身を捧げているんだ。これ以上僧に触れるな!」と言い返しイギリス軍を追い払ったといいます。

冷静に見れば日本人とミャンマー人は全く同じ顔ではありません。しかし当時は電気もない薄暗い室内と、いわゆるヨーロッパ人がアジア地域の人々の細かい区別がつかないという好都合もあって、このような秘策はかなり多くの地域で行われ、敗走日本兵や残留日本人の命を救うこととなったのです。

ビルマ族そして多くの少数民族の支援によって命を救われた日本人、軍や政治の中枢だけではなく、日々の暮らしの中で友好関係を築いていたその一つ一つが、戦争の終焉において「命綱」となります。そして、この「命綱」は敗戦・日本軍武装解除、本土への帰還、戦後復興・現代とそれぞれの場面で形を変え更に続いていきます。

さて、1945年の日本敗戦とともに再びイギリスの保護下となったビルマ。それでもアウン・サンらの国家独立へ向けた闘いの火は消えることはなく、次は武力ではなく外交交渉によって英国からの独立を画策し、遂に1947年英国からの完全独立の確約を勝ち取ります(アウン・サン=アトリ―協定)。

そんな最中、ある「再会」と「悲劇」が時を置かずして巡ってきます。「再会」は日本とビルマが築いた絆が試された時、「悲劇」は日本との絆が途切れるのではと危惧した時となります。

(続く)

資料:

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