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Relationship ― ミャンマーと日本の『時間軸』を辿る ~ミャンマーとの友好関係の構築…昭和時代その6

ビルマ人歓喜の裏で

前回は、鈴木大佐とアウン・サンに率いられたBIA(ビルマ独立軍)がラングーンに進軍したもののなかなか独立が承認されない段階で話が終わっていました。
軍人たちは戦争の「リアル」というものを肌に感じながら日々を過ごしていたわけですが、一方でビルマ人はこのラングーン進軍と一連の出来事についてどのように感じていたのでしょうか。


写真1:バー・モウ博士

1943年に後の国家元首となるバ-・モウ博士は、この時の国民の様子を『ビルマの夜明け』という書物に記しています。(以下抜粋)
「百年にわたる外国支配が、彼らの目の前でいきなり崩壊していった。ビルマ人の精神状態はただただ有頂天の狂乱状態だった。ビルマ人は全く興奮していた。全世界の爆発の中で、ビルマ人たちは、内部の全ても爆発しているように感じた。この気分は四ヵ月前に誕生したビルマ軍の出現で最高潮に達した。(中略)ビルマ軍は彼らにとって、過去への郷愁と未来への夢の象徴であった。それゆえ、人々は熱狂的にそれを歓迎した。」

ビルマ人にしてみれば植民地支配が崩壊したということがまず喜びだったということ、そしてその象徴がBIAであったということです。しかしながら、支配が崩壊した後のこと、つまり独立国家の樹立や今後の国内政策という長い道のりについて、一般人のなかではノープランであったということも言えます。

この状況は2015年に行われた総選挙時の国内の様子に酷似しているのではと私は思います。
総選挙時「政権交代」というワンワードで選挙運動を展開し、政権交代はしたものの具体的政策はほぼほぼノープランであった状況やお祭り騒ぎのように狂乱状態であったミャンマー国民の様子は、1942年のこの出来事の時間と同じ空気が漂っていたのかもしれません。

さて、ビルマ人の歓喜の裏では南機関と帝国陸軍上層部、そしてアウン・サンらBIAの軍人達との対立はいよいよもって深刻化していくことになります。
鈴木大佐以下BIA部隊は組織の強化を図りつつ、軍事行動に並行して政治面で行政的権限の拡充をめざしていました。ラングーン進軍の過程でめぼしい町にBIA配下の者を送り、行政的支配力を確保することに着手しながら、早急に首都ラングーンにBIAの中央行政府を設立しようとしていました。こうすることで陸軍司令部に対して自分たちの立場を強化しようと画策していたのです。

鈴木大佐の脳裏には、上層部の「独立承認拒否」の姿勢は幾度となく浮かんでいました。今後、南機関・BIAと帝国陸軍司令部との摩擦の回避が不可欠なことは充分に予測していたと考えられますが、結果、行政府を設置することは承認されます。

しかしこれには軍司令部のカラクリがありました。確かに設置された行政府は「ビルマ中央政府」と呼ばれていたものの、日本軍のビルマ完全占領が完了し、「軍政下」の合法的政府が成立するまでの間、地方各地における「無政府状態」を食い止めるための「暫定的措置」として鈴木大佐以下BIAに仮の承認を与えたものだったのです。
ですから、権限もラングーン周辺に限定され、わずかな徴税業務と軽微な法律違反を取り締まるくらいのことしかできなかったのです。
ほどなく軍司令部は軍政を敷く体制を整え、早期独立を期していたアウン・サンらBIAと決定的に衝突をすることになります。

アウン・サンらに「覚悟」を聞いた鈴木大佐

ビルマ人による完全独立の夢はこの段階では叶わなかったわけですが、アウン・サンらにも独立に踏み切っていけなかった当時の情勢があります。
このあたりに関して、元南機関員であった泉谷達郎陸軍中尉の著書『ビルマ独立秘史―その名は南機関』にこのようなエピソードが記されています。


写真2:ビルマ侵攻時のラングーン

「鈴木機関長はもし彼らが日本軍と衝突を引き起こしても、独立に踏み切るといったならば、ビルマ義勇軍をラングーンからデルタ地帯のバイセン地方に誘導しようと思っていた。そして、ビルマ人が独立を望み日本軍と対抗しようとするならば、日本人機関員は日本軍の銃弾に倒れ、死を以って軍の独立問題に対して再考をうながす以外にないと考えていた。(中略)
機関長は開口一番、“おまえたちはいつ独立するのか”と聞いた。オンサン(アウン・サン)をはじめ一同は、意表を突かれた質問にポカンとした表情をしていた。機関長は、“おれがビルマ人であったら、日本軍と闘って止むを得ないと思う。お前たちはどうするのか。”と続けて言った。誰も何も言わない。“しかし、おれは日本人だ。こうはいうものの俺が先頭に立って日本軍と闘うわけにはいかん。お前たちが独立のためにどうしても日本軍と闘うというならば遠慮はいらぬ。まずおれを殺してから闘え!”」

鈴木大佐は独自の「国家独立論」に立って、アウン・サンにビルマ人としての「覚悟」を質した。しかし現実には、日本軍に勝てるだけの戦力を持たないBIAとしては日本に逆らってまで独立すべきではないという常識的な判断しか下せなかったのです。結局アウン・サンらがラングーン入城とともに考えていた「ビルマ独立宣言」は暗に引っ込められ、独立問題は次の大きな作戦の後に持ち越される形となりました。

また、泉谷中尉は当時のビルマ人の気持ちをこう代弁しています。「しかし今まで、日本軍は兄弟であると信じきって戦ってきたビルマ人の心の中に、ラングーン陥落とともに日本軍より被征服民族としてとり扱われるようになったことに対する不信感が何としても我慢できないしこりとなって残ったに違いない。」と。
泉谷中尉の指摘のとおり、南機関や軍司令部とアウン・サンらBIAとの間に、一度抱いた不信感は払拭することはもうできない状態でありました。

そんな最中、別れは突然にやってきます。
溝はあれども、最後は戦友として改めて絆を確かめ合う時間がまだ残されていました。

(続く)

資料:

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