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Relationship ― ミャンマーと日本の『時間軸』を辿る ~ミャンマー政権交代からまもなく1年~国民熱狂の果てにあるもの

2017年最初のコラム

2017年新たな年がスタートしてしばらく経ったが、1月はミャンマー国家にとって歴史的な日が存在する。
1月4日は「ミャンマー建国記念日」、大東亜戦争後イギリスの再統治を受け、1948年そこから再独立した記念日である。今後のコラムにも書こうと思っているが、この時既にアウン・サン将軍は亡くなっており、真の独立を見ずに彼の人生は終わってしまう。
しかしそれまでのイギリスとの独立交渉に尽力したことへの感謝の表れとして、「建国の父」という敬称を付けてミャンマー国民は彼を呼んでいる。

さて、建国の父アウン・サン将軍の子、言わずと知れたアウン・サン・スー・チーだが、2015年11月に行われたミャンマー連邦議会の総選挙において、彼女が率いる国民民主連盟(NLD)が前大統領テイン・セインも所属する政権与党であった連邦団結発展党(USDP)に大差をつけて圧勝し、政権交代が行われることとなった。


写真1:引き継ぎ式を行ったティン・チョウ新大統領(左)

2016年3月、自らが大統領になれない憲法上の規定があるため、NLDの幹部でもあったティン・チョウを大統領に指名し、スー・チーは外務大臣を始め4つのポストの兼任大臣として入閣し(後にポスト削減)、更に新たな「国家顧問」という新設ポストに就任しミャンマー国家序列第2位の地位を得た。
当時ミャンマー国民は、USDPによるこれまでの政治的・経済的実績には配慮せず、アウン・サン・スー・チーというパーソナルイメージと、民主化或いは政権交代というワンワードに熱狂し、政権運営能力未知数のNLDを大勝へと導いていった。
あの熱狂から1年が経過し、間もなく政権交代から1年を迎えようとするミャンマー連邦共和国について、年初のコラムということでもあり、私見ではあるが今後のミャンマー国家の展望や解決困難な問題について書いてみたいと思う。

「大統領よりも上の存在」は何をしたのか?

2015年ミャンマー総選挙の選挙期間中、外国人記者や国内メディアを招集した会見上、アウン・サン・スー・チーが発したコメントが「政権を担うこととなったとき、私は大統領よりも上の存在になる。私がすべてを決める。」である。
文言だけとらえれば、政治システムを無視した独裁体制への変更或いはよっぽどの世間知らずというふうに捉えられ兼ねないものである。
実質前述したが「国家顧問」というポストを新設し、政権ナンバー2の地位を確立、メディアや国際会議では皮肉にもティン・チョウ大統領よりも「目立つ存在」にはなった。
しかしながら、政権交代後の内政や外交政策について見てみると、大きな成果や改革を行っている様子は皆目見当たらないというのが現実である。

私も本コラムの第1回目にミャンマーの現状を掲載しているが、読み返してみると、「文民」・「未知数」・「格差」という3つのキーワードを用いて説明していた。


写真2:ミャンマー総選挙(NLD集会)

軍人色から文民色になり、一部の既得権益者だけが優遇される経済システムからの転換や公務員と民間人の格差や大民族少数民族との生活格差の是正など、性急に取り組むべきイシューは他国人の私から見ても両手に余るほどあったはずである。
しかし、総選挙で燃え尽きてしまったのか課題解決の処理スピードがUSDP時代よりも遅い、或いは全くやっていないという状況である。

他国において或いは日本国において政府が行うべき政策を実行していないとしたら、当然国民は怒りに打ち震えるだろう。反政府デモが起きても致し方ない状況であるにもかかわらず、ミャンマー国民は「寛容」なのか「お人好し」なのかそのような不満が韓国のように噴出することはほとんどないという。
これはひとえにアウン・サン・スー・チーというパーソナルイメージに対する「信仰心」の如き空気感が、国民全体に覆いかぶさっているからに違いないし、民主化或いは民主主義というものについて国民一人一人の熟知または正しい認識というものが存在しないという理由からかもしれない。
ともかく辛らつな言葉を投げ掛ければ、アウン・サン・スー・チーは自分が目立つ場所には積極的に顔を出すも面倒くさい場所には全く見向きもしない、ということであろう。

「行くも地獄、戻るも地獄」の国内問題

国民和解と民族紛争の終結、これはかつての軍事政権時代から綿々と引き継がれている未解決問題である。
これについてもアウン・サン・スー・チーは、すべてが国軍によって問題解決を困難にさせていたものであるから、私ならば解決できると意気込んでいた。
しかし、現状は如何であろうか?
一つ目は、ミャンマー北西部のラカイン州におけるイスラム系少数民族「ロヒンギャ族」とラカイン族との武装闘争であるが、これについてはアウン・サン・スー・チー自らが米国のケリー国務長官(当時)との会談の席上「我が国にロヒンギャ族というものは存在しない。」と明言しており、ラカイン州での紛争に他国が介入するなと暗に圧力をかけている。


写真3:船で脱出するロヒンギャ族

二つ目は、ミャンマー北東部のカチン州において、工事が凍結されているミッソンダムの建設再開か中止かの政治判断を迫られていることである。
これについてはダム建設時に中国からの多額の資金援助と政府間協力の取り決めが交わされており、中国政府から早急な建設再開の圧力が加わっている。しかしながら、建設予定地内で生活するカチン族の今後の生活保障やカチン族武装勢力との一時停戦破棄などの問題もあって、中国政府とカチン族との間で板挟みの状態となっている。

この二点の問題はいずれも当事者双方が完全に納得する結論はまずもって見出すことはできないだろう。ラカイン州の問題は、それまでアウン・サン・スー・チーを盛り立てていたヨーロッパ各国政府、更に国連人権委員会も是正勧告や避難声明を発する事態となっている。
ノーベル平和賞受賞者であり「良心の囚人」とまで称された人間が、こと人間の生きるという問題について黙殺を続けている状況は、欧州や国連などにとって苦々しく思えるだろうが、アウン・サン・スー・チーに過度な期待をしていた欧州や国連にも応分の責任は存在すると考える。

ミャンマーはどこへ向かう~民主主義の再勉強

政権交代から1年、これまでの政権運営をテストに例えるのなら残念ながら「赤点」であろう。イメージばかり先行してしまった現状を鑑みれば、もっと地に足の着いた地道な政策から真摯に向き合うべきだったと考えられるし、そもそも民主化・民主主義というものを正しく認識していたのかどうかという課題にも直面する。

昨年アウン・サン・スー・チーが来日した際、京都大学において学生との対話でこのようなコメントを残している。
「民主主義は努力を続けないと、使わない筋肉のように衰えてしまう」
私はこの言葉に疑問を感じている、なぜならば、民主主義は何か継続して行うものではなく、単なるシステムであるからだ。つまり使って鍛えるのではない、使う人間を鍛えなければシステムは回らないのである。

今日、我々日本国そして欧米諸国の民主主義にしても、一朝一夕で実現したものではなく、幾多の紛争や革命、長い時間をかけたプロセスによって今日の姿がある。
民主主義を定着させて正常に機能させるには安定した国内情勢と国民が飢え死にすることない経済活動が必要であり、加えて国民の教育水準がある程度に達して国民一人一人が民主主義についての理解と自覚を持たなければならないと思う。
拙速に形だけ民主制を取り入れても、結局悪用しようとする者の食い物にされ、正常に機能しない、形ばかりの民主主義は衆愚政治の淵に埋没してしまうだろう。
ミャンマーは民主主義をもう一度、いや初めから勉強しなくてはならない。

資料:

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