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Relationship ― ミャンマーと日本の『時間軸』を辿る ~ミャンマーとの友好関係の構築・・・昭和時代その5

ラングーン占領と鈴木大佐の葛藤

先月は鈴木大佐やアウン・サン達が協力してBIAが結成され、いよいよビルマへ進軍を開始するところまで書きました。
大東亜戦争初めの6カ月間の戦いは、どの歴史書を見ても破竹の勢いで米英仏蘭軍を駆逐したと書いています。追い詰められた日本の鬼気迫る「必死必勝の覚悟」の表れだったのかもしれません。

ここで非常に大雑把ではありますが、BIAも従軍した南方軍の動きについてまとめます。

12月8日:第二十五軍、マレー半島上陸、第十五軍タイ王国へ進駐開始。
12月10日:マレー沖海戦勃発、英国戦艦プリンス・オブ・ウェルズ撃沈、南海支隊グアム島占領。
12月19日:南支派遣軍が香港を占領。日本・タイ王国攻守同盟締結。
翌1月2日:第十四軍、フィリピンマニラ占領。
1月20日:第十五軍、ビルマ攻略開始。


写真1:シンガポール陥落後降伏交渉へ向かう英国軍

2月15日:第二十五軍、シンガポール攻略、英国軍降伏。
3月1日:第十六軍、ジャワ上陸開始。
3月8日:第十五軍、ラングーン占領。
3月9日:オランダ軍降伏

となります。
約3カ月間の戦いにより、東南アジア地域の重要地点を占領、南方軍が緒戦の勝利に沸く光景が浮かんできます。

ここで歴史講談をやっていくのであれば詳しくそれぞれの戦線について解説を加えるべきでしょうが、このコラムの目的は日緬の絆や当時の人間模様に光を当て、既成の歴史書や教科書の隙間を埋めていくことに意味があると考えますから、戦闘の部分は大胆にも割愛しまして、歴史の時間軸を鈴木大佐の内なる「心の時間軸」にスポットを当ててみたいと思います。

鈴木大佐の胸の内


写真2:鈴木機関長

自らを「雷将軍」と称し、アウン・サンやビルマの青年たちに存在の大きさを印象付け、ビルマ独立機運の牽引を引き受けていた鈴木大佐。1897年の生まれですから当時45歳、先月も書きましたが所謂管理職であり、現代社会でもほぼ同じ年齢で管理職の役職についているでしょうが、現代と違うのは凄まじく大きな使命を担わされていたということでしょう。其れゆえに避けては通れない問題が、鈴木大佐自身の心の葛藤として現れ、果てなき悩みを生み出す元となったのです。

帝国陸軍参謀本部の目的は、援蒋ルートの破壊と戦争継続に必要な資源の確保がメインであり、東南アジアに駐留する英蘭軍の排除・駆逐を目的とした植民地国家の独立や日本との連帯はあくまでもオプションでありました。

作戦開始当初から振り返ってみると、参謀本部と鈴木大佐個人との「温度差」はじわじわと広がっている様子が多々あったわけです。「南益世」と称してビルマに潜入した時も、アウン・サンらを保護して日本へ匿う時も・・・思い出してください、参謀本部はほぼ「ノープラン」であったことなのです。
つまり、鈴木大佐の機転のおかげで何とか危ない橋を渡り切っていたのですから、組織上層部への拭えない不信感や「組織における自分の価値は一体何なのか?」ということを常に自問自答しながら日々従軍していたのでは、と鈴木大佐の心の葛藤を私は推し量っています。

事実、3月8日のラングーン陥落よりも遥か前から、鈴木大佐は軍上層部とビルマ独立に関しての早期実施について進言をしていました。しかし、帝国陸軍参謀本部は全くと言って良いほど首を縦には降らなかったのです。

ラングーン陥落後のエピソードにはなりますが、鈴木大佐は帝国陸軍の那須軍政部長に会って早期独立を進言したことがあります。(那須軍政部長とは陸軍士官学校の同期なので、進言というよりは問い質したと言った方が適切かもしれませんが)そのとき那須軍政部長は「ビルマ独立に触れてくれるな」の一点張り、「ビルマ人に独立を約束するかのごとき印象を与える言葉を使ってもらっては困る」と言い放ちます。軍上層部の意向はあくまでも援蒋ルートの破壊、資源確保だったということです。結果として南機関と陸軍参謀本部との確執は確実に深くなっていったのです。

鈴木大佐の国家独立私論

また、鈴木大佐の「思考」というものも、当時の軍人にはあまり見受けられない非常に見識に満ちた考えであった、だからこそ上層部との乖離が起きてしまったのかもしれません。


写真3:ラングーン陥落後行進するBIAと鈴木大佐

これについては、当時鈴木大佐と共に南機関に所属した泉谷達郎陸軍中尉の著書『ビルマ独立秘史〈その名は南機関〉』にこのような記述があります。

「鈴木機関長は独立に対してかなり個性的な見解をもっていたようである。つまり民族の独立は民族固有の権利であって他国が独立を与える筋合いのものではない。ビルマの独立はビルマ人の権利であって、日本が独立を与えるとか、与えないというものではない。ただし、仮にビルマ人が独立国家をつくったとしても、日本が認めるか認めないかは別問題である。」と。

泉谷中尉はこの後に解説を加えています。「日本国家中枢や当時の日本人は国家の独立という問題に誤った考え方を持ってしまった、日本が独立させてやるという頭しか持ち合わせていなかった。そして、日本はビルマにおける民族独立運動を知らなすぎた、そして民族の独立ということがいかにかけがえのないものかも知らなすぎた。」と。

植民地として支配された経験がなかった日本において、民族自立・国家独立とは何かと真剣に考えを巡らせるものは皆無であったことは否定できません。そのような世の中で鈴木大佐が思考していた国家独立論は、与えられたものであればそこで新たな主従関係が成立し国家独立は有名無実化する、死にもの狂いで自らの手で勝ち取った独立は、ありとあらゆる呪縛が解かれた、純然・神聖なものとして存在するということなのでしょう。

だからこそ上層部の命令とはいえビルマ人を支援し、独立という最後の部分については、ビルマに住む人々が先頭になって行い、その行動をサポートする存在でありたいと願っていたとも考えられます。しかしながら、事実はそのように事は上手く運びません。
軍上層部との徐々に広がってゆくビルマ統治に関する思惑、そして国家独立への思い、この心の葛藤は、やがてアウン・サンらビルマ独立義勇軍の兵士たちとの絆に、新たな影を落としてゆくことになります。

(続く)

資料:

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