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Relationship ― ミャンマーと日本の『時間軸』を辿る ~ミャンマーとの友好関係の構築…昭和時代その3~

ビルマ攻略戦始動―地獄の海南島

前回はアウン・サンとラー・ミャインが日本で潜伏生活を始めるところまで書きました。
互いにほぼほぼノープランだったビルマ戦略、しかし蒋介石率いる重慶政府の抵抗が激しくなるにつれ、「援蒋ルート」寸断は帝国陸軍にとって最重要課題となっていきます。

帝国陸軍参謀本部は鈴木大佐の意向をやっとくみ取り、昭和16年2月1日、鈴木大佐を機関長とする特務機関「南機関」を発足します。「南」は方角を意味するのではなく、鈴木大佐の偽名「南益世」から由来したといわれています。

南機関の目的は、ビルマの英国からの独立支援「援蒋ルート」の破壊であり、陸軍からは中野学校出身の将校のほか、一般の将校、海軍からも要員を集め、アウン・サン、ラー・ミャインのほか日本に留学していたビルマ人3名が参加します。(ちなみに、南機関の構成員については其々興味深い人物がたくさん参加していますが、本コラムは日緬友好の歴史を辿るものですので、先を急ぐため割愛させていただきます。)

更に、南機関員の全面協力のもとアウン・サンは、タキン党の地下ルートなどを駆使し、有力メンバーとのコンタクトに成功、陸路・海路を経て日本に辿り着いたビルマ人青年は30名に上りました。
その彼らが、後に英雄と称される「ビルマ三十人志士」となります。


写真1:南機関に参加したビルマ青年たち

日本に集結した30人のビルマ青年は、箱根で束の間の静養を終えると、当時日本占領下にあった海南島に赴きます。
気候条件がビルマに似通っているという理由で選ばれた場所ですが、訓練地は海南島・三亜の町から50キロ離れた密林の中だったといわれています。

その目的は、軍事訓練を施し、再びビルマへ戻してビルマ国内各所において武力による反英暴動を起こすことを計画するためです。

この海南島で軍事訓練を受けたビルマ人の中には若き日のネ・ウィン(後のビルマ首相)も含まれており、身体こそ細かったのですが、さすがに理解力があり、日本軍人の代わりに同志に教えるなど、闘志も人一倍あり、メキメキと頭角を表したといいます。

海南島の訓練は厳しいものでした。
或る志士は、「ビルマがもし海南島から陸続きだったら、どんなに困難が待ち受けていようと逃げ帰っただろう」と述懐したそうです。

アウン・サンのカリスマ性

大東亜戦争開戦まで8ヵ月を切った昭和16年4月、海南島・三亜訓練所での軍事訓練プログラムが始動、その内容は帝国陸軍の将校育成コースを土台に、「戦闘・戦術の指揮」といった基本的なものから「国内擾乱に向けた情報収集活動」「地方行政」にまで及んだとされています。

本来なら2年以上かかるプログラムをたった3ヵ月で修得しなければならない過酷さ、更に叛乱を呼び込むゲリラ戦術も学ぶ必要があり、人知れぬジャングルの奥での過酷な訓練だったのです。

ところが、訓練初日は味気ないものだった。命じられたのは訓練所の清掃と周囲のゴミ拾い。闘志燃えたぎるビルマ青年たちは「軍事訓練の為に来たのに」と一様に気色ばんだそうです。


写真2:海南島での軍事訓練

三十人志士のひとり、ボ・ミンガウンは回想録の中で、その時アウン・サンが仲間の怒りを鎮めた、とのエピソードを紹介しています。

アウン・サンはこう言います、「今日の訓練は、われわれの根性と忍耐心を試したのだ」と。
そしてアウン・サンは、自分達は弱く、イギリスを倒すには忍耐こそが大切だと仲間たちに説き、結束を固めたと。
やはり、アウン・サンはリーダーに相応しい人物だったようです。

アウン・サンはコングレス(国民会議派)の大会に参加してインド各地を巡るなど、既に国際舞台に名を印していた人物で、「三十人志士」の中でも別格、しかし経歴以外にも強いカリスマ性を持っていたということがこのエピソードからもうかがい知れます。ですから機関長の鈴木大佐も全幅の信頼をおいていたのです。

また、習慣の違いもあり、例えばミャンマーでは、(今は薄れつつも)親でも子供を殴らないという習慣がありますが、日本式の「ビンタ」にはビルマ人にとってショックもあり、不満でもあったようです。しかし、独立のためと不満をエネルギーに変えていきました。

一方でこんなエピソードもあります。
食事は日本食があわなかったので、ビルマ人が自主的に作るようになりました。すると、日本側の教官や班長も彼らと一緒になってビルマ料理を食べていたそうです。

当時のミャンマーでは、イギリス人はビルマ人とどんなに親しくなっても一緒に食事したりしませんでした。ですから日本人のこの行動はアウン・サン等にとって驚くべきことだったでしょう。
一緒に食事し、一緒に寝転がって喋るなどとやっているうちに、日本人とビルマ人の信頼関係は増していきます。

そして事態は急変し、日本はいよいよ英米との開戦へと進んでいくことになります。

(続く)

資料:
  • 写真1:タイトル・撮影者不明 ≪南機関に参加したビルマ青年たち≫
  • 写真2:タイトル・撮影者不明 ≪海南島での軍事訓練≫

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